・空の空①
・空の空②
・空の空③
・空の空④
***
芥川ソラネにとって、胡桃沢ソラノと過ごした過去というものは、もう二度と掘り起こしたくもないものだった。
ソラネとソラノは多くの日々を過ごし、ソラネは少しずつソラノに心を許し始めていた。
なのに、ソラノはいとも容易くウミを選び、ソラネから離れていった。
人の行動に口出しするつもりもなかったし、口出しする権利もないと思っている。誰が何といっても、結局選ぶのは自分なのだから。
しかし、ソラノに対しては別だった。
かつてのソラノはソラネに対して何でも話していた。なのに、あの時のソラノは何も言わなかったのだ。
「ねぇ、なんであの時あいつと一緒にいなくなったの?」
だからこそ、もしもいつか会ったら聞きたかった。
「芸能界で活躍してみたい、ってあんなに言ってたじゃん」
ソラネと一緒に過ごした時のソラノは、満面の笑みで夢を語っていた。なのに、結果は途中で匙を投げたのだ。夢を半ばで諦めるなんて、ソラネは理解出来なかった。
ソラノは一瞬呆けた顔を浮かべたが、
「ソラネが一番分かるでしょ。芸能界はそんなに甘いところじゃない」
すぐに自嘲気味に微笑みを浮かべた。
「私くらいの人間なんて芸能界には石ころみたいに転がってる。……いや、違うか。私は地面の中に埋まってる石以下だった」
「……そんなことなかったでしょ」
「ソラネがいたのに?」
精いっぱい絞り出したソラネの言葉は、容赦なくソラノに否定された。
「原石の塊みたいなソラネが隣にいたんだから、嫌でも私は私の価値を悟るよ。ソラネがいる限り、私は日の目を浴びることはないんだって悟ったらさ、全部が虚しくなった。それと同時に、ソラネに少し嫉妬するようになった」
長い間ソラノと一緒にいたはずなのに、ソラネはソラノの心の移り変わりに気付いていなかった。それはソラネが人のことをしっかりと見ようとしていなかったからだ。
「でも、一番嫉妬したのは、ソラネが活躍することじゃなかったの。私が嫉妬したのは、ソラネがウミくんと仲良くしてたことだった。あの時は、ウミくんのことがどうしようもなく好きだった。ウミくんが私のことを見てくれれば幸せになれると思った。だから……」
「主役を譲って、と私に頼んだわけね。ウミを振り向かせる機会として」
ソラノはこくりと頷いた。
「ウミくんと恋人役になれば、役の中だけでも振り向いてくれるんじゃないかって思った。でもね、役の中だけじゃ私は満足出来なくなった。だから、私はウミくんを誘ったんだ。女の武器を使ってね」
自分の目を指さしながらソラノは言った。
「ウミくんは私の求めに応えてくれたよ。舞台の本番もさ、ウミくんは私の恋人として出てくれてたんだよ。あの時は嬉しかったけど、ちょっと恥ずかしかったな。恋人と、恋人役として舞台に出てたんだもん」
小恥ずかしそうに笑うソラノに、ソラネは何も言うことが出来なかった。
「それでね、私、舞台が終わった後、ウミくんに二人で幸せになろうって言ったんだ。この舞台の続きを、二人だけで紡いでいこうって」
当時ソラノとウミが演じた舞台は、それはそれは甘い物語だった。物語の中にはちょっとした困難もあったけど、それも恋のスパイスとして、不平不満を言わずに乗り越えていき、最終的には恋人である二人が結婚に至った。それからの物語は、舞台上で演じられなかった。
ソラノがウミとどのような物語を紡いだのかは分からない。
しかし、それがソラノにとって幸せに満たされていたものではあったのは間違いない。
世間一般でも、恋人が出来て結婚をしたら幸せになる、とはよく言われている話だ。
けれど、その感覚がソラネには分からなかった。
本当に愛する人に出会って、その人と結ばれて幸せな家庭を築けば、虚しさを感じなくなるのだろうか。
――ソラネの目の前にいるソラノのように。
「ねぇ、ソラノ。今、幸せ?」
ソラネの問いに、ソラノは「うーん」と唸りながら空を見た。その傍らで、リクをあやす手は止めない。ソラネにとって予想外の反応だった。
「ソラネに比べたら、次元の低い話かもだけどさ」
ソラノは曖昧な笑みを浮かべながら、話を切り出した。
「ウミくんと付き合うようになってから、私は幸せだった。ずっと好きだった憧れの人と付き合えて、結婚までしたんだもん。嬉しくならないはずがないよね。でも、その幸せは長続きしなかったの」
「……え?」
「もっと見て欲しい、もっと愛して欲しい、もっと、もっと、もっと……そういう欲ばかりが溢れて来る。私、自信がなかったんだ。あんなにカッコよかったウミくんだもん。頑張ってウミくんを射止めたとはいえ、心が変わらないとは限らない。実際、心が移り変わったわけだし」
自分のことを言われている、と分かったソラネだったが、あえて言及することはなかった。
「だからね、私はウミくんに愛されている証拠が欲しかった。その証拠があれば、ウミくんは絶対に私から離れなくなって、ずっと永遠に幸せを感じるんじゃないかって思った。それで、その手段として選んだのが――」
ソラノは胸に抱くリクを優しく撫でた。
「有難いことに、ウミくんとの愛の証拠でもあるリクに出会うことが出来た。これでもう私は虚しくならなくて済むんじゃないかって思った。でもね、やっぱ私の中に生まれたんだよね。……欲が」
「何かあったの? ウミとの間に」
「よく物語にあるでしょ。子供が出来た途端、夫が他の女に目を向ける物語。言質を取ったわけじゃないけど、リクが生まれてから、ウミくんは明らかに帰る時間が遅くなった」
「もしかしたら違うかもしれないじゃん」
「違うかもしれないし、そうかもしれない。でも、間違いなく言えるのは、ウミくんはリクの面倒を見たがらないということ。だからね、今の私はね、バツイチ子持ちでも私を愛してくれる人に出会えたら幸せになれるんじゃないかって思ってるんだ。だってそうでしょ、そんなマイナスな要素を持っていても好きになってくれるなんて、それこそ本物の愛だと思わない?」
ソラネは何も言えなかった。本物の愛というものに、ソラネ自身も出会ったことがないからだ。
「……でもさ、本当は分かってるんだ。リクごと私を愛してくれる人に出会っても、満たされるのは一瞬だけで、私はまたもっともっと求めるようになる。しかも、満たされるためのハードルはどんどん上がっていくんだ」
ソラネは「そう、だね」と小さく呟いた。まさしくソラネ自身が体感して来たことだった。
「次は何をしたら満たされるんだろうね。でも、結局何をしても満たされるのは最初だけで、虚しさを感じるしかないんだ。ねぇ、ソラネ。人って業の深い生き物だよね」
ソラノは虚ろな目でソラネを見ながら、微かに口角を上げた。ソラネはまたしても何も応えることが出来なかった。
ソラネがずっと気付いていながらも、直面したくなかった現実だからだ。
すると、ソラノの胸に抱かれて、スヤスヤと眠っていたリクが泣いた。「あー、ごめんね、リク。怖くないよー。家に帰って、おもちゃで遊ぼうねー」と体を揺らしながら、ソラノはリクを宥めた。
「ごめんね。久し振りに会ったのに、こんな辛気臭い話しちゃって」
「……いや、別に」
ソラネは首を小さく横に振った。「また会おうね」、ソラノはそう言い残すと、ソラネは傍から離れていった。
きっとソラノとまた会うことは二度とないのだろうと、ソラネは直感的に感じていた。
一人残されたソラネは、いつの間にか日が沈み掛かり始めている空を眺めた。
全体的に暗い空は、これから一雨でも来ることを彷彿とさせ、不安を蝕んで来る。
しかし、ソラネは動けなかった。
「そう、よね……」
ソラネの頭にソラノが放った言葉がこびりついて離れなかった。
「人は、満たされない……」
ソラネも今まで虚ろな思いを感じていたけれど、その考えを打破するために努力を重ねて来た。そのために選んだ方法として、芸能人として多くの人から認められるというものだった。しかし、どんなに認められようとも、ソラネの心にはまだ認められたいという思いが消えなかった。もっともっとと手を伸ばした挙句、自らの身を滅ぼした。
これが真理だ。
「それに、どこかの偉人も似たようなことを言ってた……」
その偉人は、王として富と名誉を集めても、結局人生は虚しいものだと主張している。
だから、心に空虚を感じるのは人の運命なのだ。
一生虚しさと同居しながら生きていなければならない。
「……やだ」
なのに、受け入れようとしたら、無性に涙が出るのはなんでだろう。
「どうしようも出来ない。そんなの分かってる。でも……」
それでも、いつか満たされることを、空に向かってソラネは願った。
<――終わり>

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