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「羽佐間、くん」
緊張していることがあまりにも伝わって来る、か細く、震えて、弱々しい声。
最初、誰が俺に声を掛けているのか分からなかった。そもそも本当に声が発せられていたのかどうかも怪しかった。
しかし、後ろを振り返って、ようやく分かった。
声の持ち主は、弘瀬登紀乃だった。
誰もいない廊下の真ん中で、弘瀬はブレザーの袖口を掴みながら、俯いて立っていた。
こうして弘瀬を前にして、思い出すのは一か月前のあの日のこと。だから、少しだけ気まずかった。
「なに?」
この後予定があったからとかではなく、つい反射的に声が素っ気なくなってしまった。
しかし、俺の声に弘瀬がびくりと肩を震わせた。「えと、あの、その」と口ごもらせて、指をいじる。
目の前にいる変人と俺は、住む世界が違う。あれだけ人を魅了する世界を作る能力を持っている弘瀬と、一緒なわけがない。
そう思いながら、この一か月の間、弘瀬がいる教室で過ごして来た。
だけど、今の弘瀬の反応は俺達みたいな一般人と同じ……むしろ弱者に等しい反応だった。
意固地になっている自分が、阿呆らしくなってきた。俺は自身を冷静にさせるようにふぅと息を吐くと、
「どうしたの?」
出来るだけ優しい声音で問いかけた。
たったそれだけで、弘瀬は安堵の表情を浮かべる。
「こ、今回の提し、出びゅつは、早く出したくて」
普段人と話慣れていないのだろう、弘瀬は噛みながらも、一枚の用紙を俺に向けた。その用紙は、昨日先生から出された課題で、提出期限は来週いっぱいまでだった。俺もまだ終わっていないのに、弘瀬はすぐにやってくれたのだ。
「えっと、それだけ?」
弘瀬はコクコクと頷いた。
「ありがとう」
弘瀬の手から書類を受け取った。弘瀬は子供みたいに満面の笑みを浮かべた。
このまま帰ってもいいのかもしれないけど、激情を向けてしまった前回のこともある。それと個人的に話を広げてみたかった。
「それにしても、やっぱ弘瀬って天才なんだな。やろうと思えば、ちゃんと出来るんだっていうか」
「……私、天才なんかじゃないよ」
普段の弘瀬からは想像も出来ないほど、揺るがない声で言う。世間話くらいの軽い気持ちで話しかけたから、あまりの温度さに「え?」という間の抜けた声が漏れ出した。
潤んだ瞳の奥に、確かな意志が灯っている。
「天才じゃないから、人よりも一生懸命にやらないと出来ないの。私はね、馬鹿だから、いいアイディアが浮かんでもすぐに忘れちゃうんだ。せっかく浮かんだアイディアが、二度と手の届かない泡沫に消える怖さが分かる? だから、思い浮かんだらすぐに書かないとダメなの」
「……弘瀬」
「前にさ。羽佐間くん、何がしたいのって聞いたよね」
俺は首を縦に振る。けれど、あれは皮肉交じりに言った言葉だ。
「私は、もっと誰かの役に立てるものを作りたい。今は簡単なゲームしか作れないけど、いつかはこのアプリがあって本当に助かったって言ってもらえるようなものを作るんだ」
弘瀬は指折り数えながら、「たとえば、クラスで上手く溶け込むためのアプリとか、旅行先でも誰かに関われるアプリとか」と饒舌に語っていく。
先ほどまでの弱々しい態度が嘘みたいだった。
「やりたいことやるためには、私みたいな人間は周りを気にしてちゃダメなんだ。私は一つのことだけに意識が向いて、それに囚われちゃう性格だから。だから、何を言われてもアプリのことだけに向き合うんだ」
「……弘瀬。お前、本当にアプリを開発することが――」
いや、違う。俺は途中で言葉を止めた。
弘瀬が好きなのは、アプリを開発することじゃない。弘瀬登紀乃の本質。弘瀬が本当に好きなのは――、
「人の役に立つことが好きなんだな」
もしも仮に、弘瀬にアプリを作る才能がなかったとしても、きっと弘瀬は別の方法を選んで、誰かの役に立とうとしたに違いない。
だけど、弘瀬は対人関係に関して不器用だから、アプリを開発することで誰かのためになろうとしている。
それが、心根の優しい弘瀬が選んだ道だ。
そのために、誰に何と思われようとも、一心不乱に構想を練っているのだ。
「……っ」
弘瀬は顔を真っ赤にさせた。先ほどまでの饒舌が嘘みたいに、あたふたとしている。
今しがた弘瀬が言っていたように、きっと意識してしまったからだ。
その姿を見て、もう少し関われば良かったかもしれないと思った。そうしたら、弘瀬のことをちゃんと知って、変に嫉妬心を抱くこともなかっただろう。でも、それは弘瀬の才能を蔑ろにしてしまうことになるかもしれない。
やはり人と関わることは難しい。
「書類、早めに出してくれてありがとな。先生に渡して来るよ」
ここらへんが潮時かと思って、俺は弘瀬の前から離れようとした。一瞬「……あ」という息の漏れる音が聞こえた。
そのすぐ後に、
「で、でもさ、羽佐間くんも、人の役に立つこと、す、好きだよね」
思わず足を止めて、振り返る。弘瀬の純粋で綺麗な眼差しと、真っ直ぐにぶつかった。
「羽佐間くんがクラス委員長として頑張ってるの、ずっと見てたから。色んな人をまんべんなく気にかけてて、誰にも合わせることが出来て、ほ、本当にすごいなって」
「弘瀬――」
「そ、それだけ……っ!」
返事をしようと弘瀬の名前を呼んだら、顔を真っ赤にさせた弘瀬はぴゅうっと俺の前から離れて行った。
一人廊下に残された俺は、暫くの間、誰もいなくなった廊下の曲がり角を見つめていた。
多分、今の俺を誰かに見られたら、きっと変人扱いされるんだろうなと客観的に思う。
でも、それでいいや。
うちのクラスには変人がいる。
特筆している弘瀬は言わずもがなだけど、他のクラスメイトも深く掘り下げれば、きっとどこか変人の部分があるのだ。
だからこそ、世界が成り立つのだ。
<――終わり>
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