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[小説]ノックして②

ノックして①

 ***

 私が生物科準備室に突撃しようと思ったのは、入学式よりも少しだけ前の話になる。

「入学手続きってどこですればいいのかな……」

 入試以来二度目となる高校の訪問に、私は迷子になっていた。その時は私が寝坊したことによって、友達と一緒に行くことも出来なくなり、他の合格者とも入学手続きの時間が大幅にズレてしまったため、私と同じような新入生の姿は周りには見受けられなかった。

 だから、一人で校舎の中を彷徨って、入学手続きを行なっている場所を探すしかなかったのだけど、私は上手く見つけることが出来なかった。

 そんな時、私は校舎の中で一人窓際にたたずむ男子高校生の姿を見つけた。

 私は彼に質問をしてもいいのか迷っていた。年上の高校生に話しかけていいか分からなかったというのもあるけれど、それよりも目を眇めて窓の外を見る彼の姿があまりにも様になっていて、邪魔をしてはいけないと思ったことが一番大きい。

 しかし、彼は私のことに気付くと、窓の外から視線を外し、私の前まで歩み寄ってくれた。そして、ブレザーの内ポケットからメモ帳を取り出すと、何かスラスラと書き始めた。何をしているのだろう、と疑問を抱いたけれど、彼のきめ細やかな所作から目が離せなかった。
 今しがた書いたメモ帳を破ると、彼は私の前にそっと差し出してくれた。

 メモを受け取った私は、「……これって」と顔を上げた。そこには、入学手続きが行なわれている部屋までの案内図が書かれていた。特別なことなんて何もしていない、と言ったように、彼は無言で私に背を向けると、そのまま廊下を歩き出した。

 恐らく気付かれることはないけど、私は「ありがとうございます!」と大きく頭を下げて、そのメモ通りの場所に向かった。

 こんなに優しい人がいる高校に通えるようになると思うと、嬉しさのあまり私の胸は高鳴っていた。

「早く四月にならないかな」

 そう願いながら迎えた高校入学の日。

 楽しみにしていた彼との再会は、私の意に沿わない形で早々に叶った。入学したと同時、容姿端麗だけど無口で冷酷で人を人と思わない上白石氷央という『氷の王子』がいるという噂が、私の教室にまで届いたのだ。

 私には、すぐその噂の人物が、入学手続きの時に私を助けてくれた人だと分かった。
 学校中に蔓延する噂を鵜呑みにすることなく、私はその日の放課後、一人で生物科準備室に訪れた。

 氷央先輩を前にして、私は咄嗟に何を言っていいのか頭が真っ白になってしまった。
 私は氷央先輩のことを憶えているけど、ただ校舎で迷った私のことを氷央先輩が憶えているはずがない。

「私、一年の日下部乃彩って言います。もし生体実験で手伝えることがあれば、何なりと私を使ってください!」

 だから、私は咄嗟に自分でも頓珍漢なことを言葉にしてしまった。

 私の言葉に、氷央先輩は整った眉根を困ったように下げて、小さく首を横に振った。私は恥ずかしさで顔が真っ赤になった。けれど、氷央先輩はそこで私を拒むことはせず、なんと私のことを生物科準備室にまで招いてくれた。

 噂で聞く限り、生物科準備室では氷央先輩が生体実験や人体実験をして楽しんでいる、ということだった。しかし、実際に入った生物科準備室はそのような実験をしている気配はなく、綺麗に整理整頓されていた。

「あ、ありがとうございます……」

 むしろ、氷央先輩は来客をもてなすように私にお茶を出してくれた。私は出されたお茶を呑み終えるまでの間、氷央先輩の動向を観察していた。お茶を出した後の氷央先輩は、静かに本を読んでいた。ページを捲る音を極力少なくする氷央先輩に、私はやはり優しさを見出した。

 ちょっとの時間しか関わっていないのに、氷央先輩はこんなにも優しさに溢れている。氷央先輩が作り出す空気は、冷たい氷なんかじゃなくて、温かな春の陽だまりのようだった。

 一度キッカケを掴んだ私は、それから私は毎日のように氷央先輩がいる生物科準備室に入り込んだ。もちろん最初の一回以外は、人目につきやすい正攻法の入口からではなく、窓から入り込むことにした。

 名目上は氷央先輩の手伝いをするというていで生物科準備室に来ているのに、結局私がしていることは氷央先輩が淹れてくれたお茶を飲んで帰るだけだ。

 そして、今日もいつも通り窓から生物科準備室に入った。

「氷央先輩、今日も乃彩で実験したいことがあったら、何でもおっしゃってくださいね!」

 変わらずにお茶を出してくれる氷央先輩に、決まり文句のように私は言う。けれど、私は氷央先輩が人を実験台にするような人ではないことは知っている。いや、多分氷央先輩は、どんな生き物であろうとも私利私欲によって実験に扱うことはしないだろう。

 そのことを分かっていながら、生物科準備室に入るたびに同じ台詞を言ってしまうのは、氷央先輩との距離の詰め方が分からないからだ。

 こうしてお茶を飲み、氷央先輩が本を読む横顔を間近で見ていられる、この陽だまりのような空間はもちろん嫌いじゃない。でも、もう少し氷央先輩と仲良くなってみたいと思うのは、私の我が儘なのだろうか。

「――あ」

 もう今日の分のお茶を飲み終わってしまった。

 お茶を飲み終わってしまったら、これ以上生物科準備室に留まっている理由もない。

 氷央先輩は噂のように冷酷な冷たい人じゃない。なのに、私は氷央先輩が何故か意図的に張っている氷の壁を溶かすことが出来ない。

「氷央先輩、今日もごちそうさまでした。また明日来ま――」

 急に立ち上がって動き出したからか、私は足に痺れを感じて、もつれてしまった。
 ただもつれて転ぶだけならまだいい。しかし、私が転ぼうとしている方角には、もともと生物科準備室に備わっている標本や実験道具などが収納されている棚があった。

 このままぶつかって、棚の中の物が落ちて、私は怪我をしてしまう。そうなったら、優しい氷央先輩は、私のことを心配するだろう。

 いやだな。

 数秒先の未来から逃げるように、私は目をきゅっと強く瞑った。

「――ぇ」

 しかし、私が恐れていた未来は訪れなかった。むしろ、温かくて安心するものに包み込まれている気がした。

 ゆっくりと目を開けると、

「ひ、氷央先輩……」

 転びかけていた私に先回りして、氷央先輩が私のことをぎゅっと抱き締めてくれていた。

「す、すみません。私、動いたら、その、足がもつれちゃって」

 最悪の展開ではなかったものの、申し訳のなさは変わらない。私は捲し立てるように謝罪の言葉を口にする。

「あの、私はもう大丈夫ですので。それより氷央先輩は大丈夫ですか? 怪我は――」
「――やめてよ、もう」

 氷央先輩は私のことを抱き締めたまま、小さく呟いた。あまりにも消え入りそうなほどの小声だったけど、氷央先輩の唇が耳の近くにあったから耳に届いた。

 氷央先輩が吐いた拒絶の言葉は、言われたはずの本人よりも、言った本人の方が痛く傷ついているようだった。

「やめて、って何がですか?」

 まるで寄り添うように氷央先輩の手に自分の手を重ねようとした。
 しかし、氷央先輩はそこで我に返ったように、私から離れた。

「僕はもう誰も傷付けたくないんだよ」

 そう言って、氷央先輩は生物科準備室を後にした。私よりも氷央先輩が生物科準備室を出ていくのは、初めてのことだった。

 いや、それよりも――、

「氷央先輩の声、初めて聞いた……」

<――③へ続く>

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この記事を書いた人

 東京生まれ 八王子育ち
 小説を書くのも読むのも大好きな、アラサー系男子。聖書を学ぶようになったキッカケも、「聖書ってなんかカッコいい」と思ったくらい単純で純粋です。いつまでも少年のような心を持ち続けたいと思っています。

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