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生きとし生きるものが、共通して絶対に辿り着く運命がある。
それは『死』だ。
時間の経過と共に、刻一刻と命を消耗していき、いつしか命が尽きるようになる。そうなってしまえば、今まで積み重ねてきたものは全てなくなり、無に帰する。
生きるということは、なんて残酷なのだろうと思っていた。
しかし、何度も何度も死に直面する内に、そんな感慨も抱かないようになった。
俺はもうとっくに定年を迎えていて、仕事をせずに御隠居している身だ。
この年になったら、周りの同年代や先達が亡くなる場面に直面する。それも数えることが面倒になるくらい、何度も何度もだ。
俺はその度に葬式に参加した。焼香を上げて、手を合わせて、親族に頭を下げる。そこに何の感傷もなかった。
いつ俺もそっちの立場に行くのか分からない。
死という運命を受け入れているつもりだった。
「なのに、こんなに立ち直れないんだな」
ここ最近の俺は、縁側に座って庭を見ていることに時間を費やしていた。庭には、ずっと可愛がっていた愛犬のシーバの墓標が立てられている。
シーバと初めて出会ったのは、この前結婚したばかりの娘がまだ小学生の頃だったから、十五年くらい前だ。柴犬の平均寿命を考えれば、十分に天命を全うした方だろう。
そのことを頭で分かっていても、やはり受け入れることはまだ難しい。
シーバを迎えた時、シーバを家族の一員として受け入れて、惜しみなく愛情を注いで育てると家族みんなで決めた。飼いたいと最初に言った娘も、当時は小学生ながら頑張ると言ってくれた。実際シーバを迎え入れた一家は、決めた通りにシーバと接した。俺はというと、仕事以外の時はずっとシーバの近くにいるようになっていた。言い出しっぺの娘よりも俺のことが出来愛していたほどだ。
けれど、仕方ない。
俺が帰ってくればシーバは尻尾を振って出迎えてくれて、餌を与えると嬉しそうに食べ、一緒に散歩をすれば活き活きと走り回り、その体を撫でると幸せそうな顔をするのだから。
その無垢な姿に、俺は何度救われただろう。
そんな家族同然に一緒に生きたシーバが亡くなってしまったのだ。想像よりもシーバを好きだった俺は、立ち直れずにいる。
「今もシーバが、ここを走り回ってくれたらいいのにな……」
そうしたら俺はシーバの後を追うように、年甲斐もなく一緒に走り回るのに。
二度と訪れない時を、俺はシーバがいなくなってからずっと願ってしまっていた。
定年後の楽しみといえばシーバと一緒に過ごすことだったのに、その楽しみがなくなって、どう生きろというのか。何をしてもシーバの代わりなんていない。
答えを見いだせないまま、俺は二年あまりを過ごしていた。
「……あなた、こんなチラシが入っていたわ」
妻がおずおずと声を掛けて来た。俺は妻の手にあったチラシを手に取る。
それは愛犬保護団体によるチラシだった。中には、里親募集と書かれていた。
「ねぇ、あなた。ここにいる子たち、引き取り手がいなかったら、殺処分されてしまうんですって。もちろん私たちに、みんなを救える余力はないわ。でも――」
「シーバの代わりはいない」
俺は妻の言葉を遮って言った。妻が息を呑んだ音が聞こえた。
そうだ。あの愛くるしくて、俺の気持ちを分かってくれているかのように振る舞ってくれるシーバは、世界中のどこを探してもいない。どれだけ願っても、あんなに幸せだった時間は戻ってこないのだ。
「そうよね」
「けど」
またしても俺は妻の言葉に乗せるように口を開いた。妻は俺の言葉の続きを窺っている。
縁側に腰かけていたところを立ち上がって言う。
「シーバがいなくなったからって、生きているこっち側がずっと塞ぎ込んでたらダメだよな」
モデル犬としてチラシに載っていたのは、柴犬だった。もちろんシーバとは全然違うけれど、この子を通して、シーバが俺に叱咤激励を送っているような気がした。
「提案した私が言うのも何だけど、本当にいいの……? 新しい子を受け入れたら、シーバとの想い出が思い起こされて、余計に苦しくなるかもしれないのに」
「確かに、俺はまだシーバの死を受け入れられていないよ。シーバがまだいればいいのに、って何度も思う。でも、もしもあの世でシーバが俺のことを見ていたら、きっと喜ばないと思うんだ」
「……あなた」
それ以上、妻は何も言わなかった。ただ必死に涙を流すまいと堪えている。
今更になって俺はこんなにも周りに気を遣わせていたのだと痛感した。
若干のいたたまれなさを覚えた俺は、「先に準備してるから、行けるようになったら行こう」と言って、縁側から自分の部屋に戻った。
保護団体のところに行くまで、何度もシーバと一緒に歩いた公園を通ることになる。シーバがいなくなってから久し振りに通るけれど、今の景観はどうなっているだろう。
ちょっと先の未来に、少しだけ胸が弾んだ。
「あのおじいさん、久し振りだな」
公園で犬の散歩をしているおじいさんを見て、既視感を憶えた。
ずっと窓から公園を見ているから分かる。傍から見ていても犬のことが大好きだということが伝わるような足取りと眼差しは、見ているこっちまで犬の散歩をしている気分にしてもらっていた。二年くらい前からパタリと足が途絶えてしまったから、勝手に心配していたのだ。
「……あれ。あのおじいさんが連れてる犬、ちょっと変わった?」
前に連れていた犬は、確か柴犬だったのに、今はポメラニアンを連れている。
なんとなくおじいさんの事情は察するけれど、詳細は分からない。けれど、おじいさんと新しい犬には、以前と同じく人の目を止めるほどの仲の良さが感じられた。
<――③へ続く>

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