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[小説]リカバリー②

リカバリー①

 ***

 ふと眠りから覚めて夢か現の間を彷徨う時、私の心は現実に戻ることを拒んでいる。

 どんな夢を見ていたのか憶えていないくせに、現実には存在しなくて、でも私の心が確かに見ていた風景に心焦がれてしまっている。もしも夢の中にずっと居られたなら、私はこんな想いをして生きてはいないだろう。
 だけど、目が覚めて一日を始めてしまえば、夢に縋っていた自分なんて忘れてしまって、なんとか必死に一日を生きている。

 きっと人生とは、そんな苦悩と妥協の連続だ。

 特に私のように性根が暗い人間は、目が覚めて早々に自分自身と戦争を始めなければならない。ついぞ勝って現実に帰還したと思ったら、もう一日の大半の体力を使い尽くしている。


「起きろー!」

 いつもの電子的な目覚まし音とは違って、誰かの肉声と全身を揺らす震動でもって、私は夢の世界から強制的に呼び起こされた。
 回数という概念を忘れるほどに聞いた声は、たとえ思考が微睡んでいたって理解出来る。

「せ、聖ちゃん?」

 だから、ここでの問題は、誰が起こしたかではなくて何で起こしたか、だ。

 私は寝ぼけ眼で、状況を判断しようとする。
 時計は六時、目覚める予定の二時間半前。そして、ジャージを着た聖ちゃんの姿。
 聖ちゃんがここにいる理由が、まだ結びつかなかった。

「ど、どーして私の部屋に?」
「おばさんに入れてもらった」

 聖ちゃんはブイサインを突きつける。「ついでに、軽く牛乳もらった」、聖ちゃんは満面の笑みで言う。

「え、いや、そうじゃなくて……」
「昨日言ったでしょ。心音が自信を持てるようにサポートするって」

 聖ちゃんとカフェで話したことを思い出す。
 基本的に内気な私が抱える悩みを打ち明けたところ、聖ちゃんは自信を持てるように手助けしてくれると言った。そして、カフェで解散した時、「とりあえず明日は朝から心音の家に行くね」と話していたのだけれど。

「こんな早いとは思わないよぉ」

 私は朝起きることを拒む駄々っ子のように布団を頭から被った。しかし、すぐに聖ちゃんはガバッと布団を引きはがした。微かな抵抗は、本当に微かに終わってしまった。

「ほら、いいから起きる。今から走りに行くよ。健全な精神は、健全な体に宿る。よく聞くでしょ?」
「え、走るなんて聞いてないよ。てか、今日はこれから雨が降るって……」

 昨夜に見た天気予報だと、確か一限の授業が始まる時間には雨が降ってしまうとのことだった。ベッドに潜ってからも、雨に降られるのは嫌だなぁと少しばかり悶々としていたのをぼんやりと思い起こす。
 だというのに、雨が降る予定なのに走り行くなんて嫌だ。そう視線で訴える。

「だから、雨が降らない内に走ろう! 今がチャンス!」

 聖ちゃんは満面の笑みを浮かべながら、親指を立てて答えた。

 そんな風に無邪気に言われてしまったら、断わることは出来ない。むしろ、聖ちゃんは私のために時間を出してくれようとしているのだ。尚のこと、断われない。流石に寝起きの頭かつ普段から否定的な私でも、それくらいは理解できた。

「さ、三分だけ待って」
「んじゃ、外で待ってるね」

 聖ちゃんが部屋を出ると、私はすぐさま着替え始めることにした。高校時代に体育で来ていたジャージがあったはず。バッと押入れを開け、二度と着ることはないと思っていたジャージを手に取る。同時、私は寝間着を脱いだ。高校時代のジャージが以前着た時の感覚と何ら変わりなかったことに、私は少しだけホッとした。

「お待たせ、聖ちゃん」

 予告通り三分ほどで着替え終わって家を出ると、ちょうど屈伸運動をしている聖ちゃんがいた。

「よし、じゃあ準備運動してから走ろうか」

 そして聖ちゃんの動きに合わせて体の一か所一か所を丁寧に伸ばしていき、体が温まったところで、走り始めた。

 一緒に走っていると見惚るほど綺麗なフォームで、聖ちゃんは私の隣を走ってくれる。
 聖ちゃんの靴はランニングシューズなのに、私の靴は少しだけ走りやすいスニーカーだ。
 隣に並んで走ってくれた聖ちゃんだったけれど、私が遅すぎてすぐに距離が開いていく。だいぶ離れたなと思ったら、聖ちゃんがスピードを落としてまた隣に来てくれるけれど、すぐに離れていく。そんなことの繰り返しだった。

「ひぃ、ひぃ」

 文字通りひーひー言いながら、聖ちゃんに置いて行かれないように走った。
 体は全然慣れておらず、たったの十五分ほどで私の体は悲鳴を上げていた。

「ひぃ、ひぃ」

 走り終わって公園のベンチで休んでいても、息が整う気配はない。

「あはは、体力ないなぁ」

 聖ちゃんは軽やかに笑いながら言う。普段から鍛えていることが、その余裕然とした振る舞いからも容易く窺えた。

 ベンチの横に設置されている自販機で、聖ちゃんはピッピッと二本分購入すると、

「どうだった? 走ってみて」

 ペットボトルを渡されがてら、そう問いかけられた。その表情は、梅雨の曇り空も吹き飛ばしてしまうほどに清々しかった。

「どうも……こうも……、疲れた、よぉ」

 聖ちゃんのように微笑みを携えながらスマートに応じられたなら良かったのに、運動慣れしていない私は途切れ途切れに返答することしか出来なかった。
 そもそも酸素が足りなくて、頭が働いていない。

 変わるための第一歩として、聖ちゃんが示してくれたのは体を鍛えることだった。

 少しだけ期待外れだったことは、聖ちゃんには口が割けても言えない。

 他人からアドバイスを貰えるなら、極端な変化を求めてしまうのは私のエゴだ。そういう自分中心なところも、嫌いなところだった。

「ほんと、意味あったの、これ?」

 この十五分という時間を見れば、体を鍛えるために走るというよりも、聖ちゃんと離れないように走っている、といった方が適しているかもしれない。
 正直なところ、ランニングを続けることで、私のメンタル面が変わるような未来が見えなかった。

「でも、朝早く起きると気持ちいいでしょ」

 聖ちゃんの笑顔の前に、「……」と私は答えに窮した。朝っぱらから走ったことに、清々しい気分を感じてはいない。けれど、毎朝感じていた寝起きの悪さを今日は感じなかったことだけは、確かだった。

 多分それは、早起きしたからとかではなくて、聖ちゃんが私の部屋にまで押しかけて起こしてくれたからだ。そのおかげで、起きるか寝るかという葛藤に苛まれなくて済んだ。

「じゃあ、これから毎日走ろうね」

 やると決めたら意外とスパルタな性格を聖ちゃんがしていることを、改めて知ったような気がした。

「う、うん。まぁ、晴れてたらね」

 雨雲が濃くなりつつある空を見ながら、逃げるようにそう言った。

――③へ続く

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この記事を書いた人

 東京生まれ 八王子育ち
 小説を書くのも読むのも大好きな、アラサー系男子。聖書を学ぶようになったキッカケも、「聖書ってなんかカッコいい」と思ったくらい単純で純粋です。いつまでも少年のような心を持ち続けたいと思っています。

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