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努力することには、何の意味なんてない。
――それが、わたしこと平石捺貴が、おとうさんの背中を見続けたことによって、常日頃から胸に刻んでいる持論だ。
最初に断わっておくと、わたしは努力全般を否定しているわけじゃない。努力という苦労に見合った結果を得ることが出来れば、努力は素晴らしいと思う。その結果は、絶対に努力なしでは得られないものだからだ。
でも、大抵の人はそうじゃない。
どれだけ血の滲むような努力を重ねていったとしても、崩れ落ちるのは一瞬だ。
積み上げた努力の土台が崩れた時の絶望感、そして、また立て直さなければいけないという徒労を思うと、努力が美しいなんてわたしは思えなくなってしまった。
だったら、そうならないように最初から無駄な努力はしない。努力をしていい人は、才能を持っていて、ちゃんと最期まで活かせる人だ。
わたしのおとうさんは、元プロ野球選手だった。
と言っても、わたしが小さい時に活躍していた選手だったから、詳しくは知らない。そもそも、わたしは女の子だから、野球自体に興味はない。
けれど、おとうさんは試合の最中に怪我をしてしまい、泣く泣くプロの選手を辞めることになった。わたしが中学生になった頃だ。その後は、監督業を担ったり、かと思いきや監督を辞め、コーチになったりもした。誰よりも努力をし続けたおとうさんだったのに、表舞台に出ることはほとんどなくなってしまった。
そして、いつしかプロの世界さえからも完全に離れ、誰も見向きもしないような弱小の少年野球のチームの名ばかりの監督をすることになった。
しかし、だ。
少年野球の監督の立場もおとうさんは二年前に退き、完全に野球と関わらなくなってしまった。今は、おかあさんと一緒に世界を旅していて、時おり送られてくる手紙によって生存を確認している。
おとうさんは、わたしが産まれるずっとずっと前――それこそ、おとうさん自身が子供の頃から野球をし続けて来た。何十年と努力を重ねて来た時間が、野球と関わらなくなったことで全て水泡と帰してしまったのだ。
だから、わたしは努力することには何の意味もないと思う。
そんな思考が中学生の思春期から根付いてしまったわたしは、無駄に頑張ることなんてせず、淡々と日々をこなすことだけを選んでいる。
だけど、現在のわたしは、それなりに充実した人生を歩んでいる。
都内のマンションの一室に家を構え、優しい夫と一人の可愛い子供と一緒に、生活を送っているからだ。
夫の傑は、好青年だ。いつも甘いマスクを着けていて、爽やかな人間なのに、わたしがどんな姿であろうとも怒らない。むしろ、わたしと似たような性格をしていて、わたしと一緒にのんびりと過ごしてくれる。そんな傑とだから、十二年間という長い月日の間、結婚生活を送れているのだと思う。
しかし、累はわたしたちの子供であるのに、わたしたちからは似ても似つかないような性格をしていた。
勝手なことながら、怠け者な子供になるだろうと思い込んでいたのに、わたしとも傑とも違って、累は堅実に努力を積み重ねることが出来る子供だった。しかも、その過程を苦だと思っていないのか、見てるこちらが逆に心配になるくらいの満面の笑みで行動している。
だけど、多分。
親のひいき目を加えたとしても、残念ながら累の努力が実を結ぶ可能性は低い。
<――②へ続く>
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