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幸せの絶頂とは、まさに私の状況そのものだと思った。
社会人二年目になって、ずっと想いを寄せていた人・香田爽平と付き合うことが出来た。
彼との初めての出会いは、高校生の時だ。スポーツ万能で成績優秀、彼は典型的なクラスの人気者だった。学校内でファンクラブが出来るほど彼に憧れる人は多く、私もその内の一人だった。
幸いなことに、私と彼の接点は多かった。
席が隣になったり、通学経路が似ていたり、顔を合わせば言葉を交わすことが出来ていた。だけど、クラスメイトという名前以上に、関係性を深めることは出来なかった。彼と一緒の時間を過ごすことに満足していたのはあるが、それ以上に、私なんかが彼には釣り合わないと思い込んでいたのだ。
そんな一方的な片思いを彼に抱いたまま、高校を卒業した。高校を卒業したら、当然彼とは接点がなくなってしまった。
看護師を目指していた私は、自分のことに忙しすぎて、浮ついた出来事に意識を向ける余裕がなかった。気付けば、彼に片思いをしていたことを思い出すことすら少なくなった。
だけど、突然彼は私の前に現れた。
再会のきっかけは、私が勤めている病院に、彼が患者として訪れたことだった。先生から渡されたカルテに書かれた『香田爽平』という文字を見て、私はすぐに彼のことを思い出し、同時に高校時代の想い出が一気に甦った。高校卒業以来に出会う彼を、私はすぐに分かるだろうかと心配になったが、それは杞憂に過ぎなかった。
高校時代と変わらない爽やかな雰囲気を彼は纏っていたのだ。一目見て、すぐに分かった。
幸いなことに、彼も同じだったようだ。私と目が合うと、彼はあの時と同じ笑顔を向けて、「紅愛、久し振り」と言ってくれた。
それから私は彼とその場で連絡先を交換して、一緒に食事をした。
高校卒業してからの互いの出来事を語り合い、互いに抱えている悩みなども話していった。
空白だった時間に、一気に彩りが増した。
そうして、互いに心を許していく内に、当時の胸の内を明かすことになった。
片思いをしていたことを正直に伝えると、彼も同じだったと言ってくれた。「なら、俺と付き合ってくれないか」と彼は言ってくれた。私は二つ返事に頷いた。
実ることがないと思っていた初恋が成就した私の心は、まさに有頂天へと昇った。
これが私が幸せの絶頂の最中にいる理由だ。
憧れの彼の口から「紅愛、好きだよ」という言葉が紡がれる度、私の心は更に舞い上がった。
この幸せが永遠に続くように、私は彼に尽くした。
彼が喜ぶことは何でもして来たし、彼が喜ぶであろうことも先回りして行なって来た。
彼は嬉しそうな表情で受け入れてくれた。その顔を見ると、私の心はいつも満たされた。社会人三年目という周りの状況も変わっていく節目の年でも、頑張って仕事をすることが出来た。
なのに。なのに、
「何で状況が逆転してるわけ?」
ガヤガヤと賑わうファミレスで、静かにコーヒーカップを口に当てていた幼馴染のチグちゃんこと添田千草に向けて、開口一番で泣き言を言う。
チグちゃんは口に含んだコーヒーを嚥下すると、
「クーちゃん、落ち着いて」
机に突っ伏す私に、そう言った。
「いきなり呼び出して、いきなり泣きつかれても、さすがに何も分からないよ。頭の整理が出来たら、一から教えて」
チグちゃんは幼い時から私とずっと一緒にいてくれる。家族以外の人で、多分チグちゃんが私のことを一番理解してくれている。
しかし、そんなチグちゃんでも、いきなり席に座るや赤裸々に不満をぶつけられても、到底理解出来ないだろう。
私はズズッと鼻を鳴らす。
私が彼と付き合うようになった経緯やその後の惚気話は、何度も伝えていて、私の高校時代の経緯を知るチグちゃんは自分事のように喜んでくれていた。
だから、私がチグちゃんに伝えるべきは、ここ最近の出来事だ。
「私、ずっと彼に好かれるように尽くして来た。プレゼントを送って、料理も振る舞って、メッセージだって何度も送って、彼が喜ぶことは何でもして来た。言葉で、行動で、文章で、私の出来ること全てで、私の想いが変わらないことを、何度も何度も伝えて来たの。――でも」
突然、彼の口から「お前、重いな」と突き放すような一言が放たれてしまった。
積み重ねて来た幸せは、彼の容赦のない一言によって音を立てて崩れ落ちた。
私は自分の何が悪かったのか問いかけた。けれど、彼は何も答えることなく、そのまま私に背を向けていなくなってしまった。
それが――、
「一昨日のバレンタインのことなの」
私は事のあらましを一息に語った。
一昨日の出来事だけあって、私はまだ鮮明に憶えている。そして、思い出す度、胸が苦しくって痛くなる。当然のことながら、私はまだまだ受け入れることは出来ていない。
ここまで黙って聞いていたチグちゃんだったが、コーヒーカップを一気に呷って、勢い良く机に置いた。カチャンという音が、やけに鋭く響き渡った。
「……ち、チグちゃん?」
「……許せない」
腹の底から絞り出したような低い声で、チグちゃんがぼそっと呟いた。「……え?」と、思わず聞き返す。
「クーちゃんの良さを分からない人なんて、別れて正解だよ」
チグちゃんの目はハッキリと怒りの色に染まっている。もし目の前に彼がいたら、そのまま殴りかかってしまいそうなほどだ。
普段は冷静なチグちゃんだが、自分事よりも他人事に対して怒りを見せる。
しかし、チグちゃんが怒りを見せたのは、その一瞬だけで。
「ねぇ、クーちゃんはこれからどうしたいの? 彼とヨリを戻したい?」
チグちゃんからの質問に、「……まだ、分からないよ」と曖昧な答えを紡ぐことしか出来なかった。
突然一方的に別れを告げられたのだから、私は未練なく首を横に振るべきだ。けれど、彼は初恋の人であって、運命的な再会を果たして付き合えたのだ。どこかで彼を信じている私がいるのも事実だった。
チグちゃんは小さく「そっか」と言った。チグちゃんは一瞬だけ空になったコーヒーカップに視線を落とした。しかし、すぐに視線を上げ、私の眦を捉える。
「なら、さ。一つ私から提案があるんだけど」
「て、提案?」
私はチグちゃんの言葉を、そのままオウム返しした。チグちゃんはゆっくりと静かに、けれどハッキリと頷いた。そして、不敵に微笑むと、
「仕返し、しよ」
私の知る幼馴染とは到底掛け離れた怖ろしい言葉で囁きかけた。
<――②へ続く>
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