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私は看護師として、都内のそこそこ大きな病院で働いている。
病院に到着して、白い制服を身に纏えば、自分のことを考える余裕なんてないほどに走り回る。
まさしくここは戦場だ。
私は身を粉にし、精神を擦り減らし、なんとか生き延びて家に帰る。家に帰っても、次の戦場に備えるための休息をするだけで、希望も何もない。
そんな戦場を生き抜くことが出来たのは、彼に出会えたからだ。
――家に帰れば、彼と一緒に時間を過ごすことが出来る。短い時間だとしても、彼と他愛のない話をすることが出来る。
そう思うだけで、私は戦場を駆け回る勇気と活力を貰うことが出来ていた。
だけど、彼に一方的に別れを告げられてから、早一か月。この間、私は上手く公私を分けることが出来なくなっていた。仕事をしていても彼のことが脳裏をよぎり、家に帰っても、また彼のことを考える。
通常運転の時でさえ目まぐるしく動く職場なのに、こんな状態で仕事をこなせるわけがなかった。仕事ではミスを連発し、家に帰ってももぬけの殻のように布団に倒れ込む。
仕返しをする、と決めてから、私は何も出来ていない。
私はこれから先――、
「――のはたさん、園畑さん」
「は、はいっ!」
私の名前を呼ぶ声に、私の体はビクリと跳ね上がった。
周りを見れば、同僚たちが私を見てクスクスと楽しそうに笑っている。朝礼を進めていた主任も、毎度のことかと言わんばかりに、肩を竦めていた。
「園畑さん。あなたの個性は和やかなところだけど、最近は少し度が過ぎてるんじゃない?」
「はい、すみません……」
「ちゃんと気を引き締めてよね。園畑さんだけじゃなくて、皆もしっかりやるように。今日も一日頑張りましょう!」
主任の挨拶によって、今日も戦場に火蓋が切って落とされる。同僚たちは、各々に任せられた職場へとテキパキと移動していく。
私も彼女たちに倣って進み出す。今日は患者さんのリハビリがメインだ。
廊下を進んでいくと、騒然とした病院の空気がピリリと私の肌を貫いていく。
先生や看護師が忙しないのは勿論、病院に訪れている患者さんにも余裕がない。当然だ。自身が病気をしているのに、心穏やかにして過ごすことが出来るだろうか。患者さんはいつ治るか分からない不安と常に戦っている。
そして、私たち医療従事者は、患者さんの期待に応えなければならないというプレッシャーを抱えて、仕事をしている。
この職場で生き抜くことが出来る人は、この仕事に相当やりがいを感じているか、神経が相当に図太くて我を貫き通せる人か、頭が相当にお花畑の人だけだろう。
私はどれにも当てはまらない。
胸の奥がキュッと握りつぶされて、プレッシャーに飲まれそうになる。
恋人という精神安定剤をなくした今、これから私はどうやってこの戦場を生き抜くことが出来るのだろう。
「チグちゃん、私には幸せになれる道筋が見えないよ」
窓の外を見ながら、ここにいないチグちゃんに向けて呟いた。
彼と一緒にいた時よりも幸せになること――、それが彼に仕返しをする方法だとチグちゃんは言った。
だけど、この戦場に等しい職場で、私はどうモチベーションを保てばいいか分からない。
人生の大半は仕事に追われる。食べて生きるためのお金を稼ぐためには、当たり前のことだ。だから、この仕事の時間をどう過ごすかによって、幸福度も変わって来る。
なのに、私はどうしてこんな過酷な場所に身を投じているか分からない。
この仕事を始めたきっかけは、いったい何だっけ。
「……あ」
ふと私の目に、ベンチに座り込む人物の姿が写り込んだ。「田島さん!」、ほとんど反射的に窓を開けた私は彼女の名前を呼んだ。
「紅愛ちゃん」
田島さんはくしゃっとした愛くるしい笑顔で、私に手を振ってくれた。その顔を見るや、「今行くから、ちょっと待ってて!」と彼女に告げ、私は外に出ることにした。
田島さんは私がこの病院に赴任するようになってから通院を始めるようになった患者さんだ。老齢が原因で足を骨折してしまったのだが、継続的なリハビリによって、今は日常生活を送ることが出来るようになっている。
お祖母ちゃんほど年齢が離れている田島さんと話していく内に、次第に本当のお祖母ちゃんのように仲良くなっていったのだ。
「やぁ、紅愛ちゃん。今日は少しだけ温かいねぇ」
「ね。もう少しで春になりそうで嬉しいよ。足の調子はどう?」
「おかげさまで絶好調だよ」
「よかったぁ」
田島さんの元気そうな顔に、つい私の本音が漏れた。田島さんだけでなく、患者さんが元気でいてくれることは、医療従事者にとって自分事のように嬉しいものだ。
「紅愛ちゃんには、いつも助けられてるよ」
「え?」
予想だにしなかった言葉に、間の抜けた私の声が漏れる。
「正直怪我して、心が挫けそうになったことが何度もあるの。病院に行って、リハビリしたって、私の怪我が一気に回復するわけでもないし、何のために生きてるんだろって」
田島さんが遠い目をしながら口にする。
知らなかった。いつも私の前では、明朗に振る舞っていたのに、こんなに苦しんでいたなんて。
「でもね、紅愛ちゃんは顔を合わせる度に、私のことを気にかけてくれた。こんな年寄りなのに、手を振ってくれたり、わざわざ雑談してくれたり」
まるで貴い宝物を抱き締めるかのように紡いだ田島さんの言葉は、全部私にとって当たり前のことだ。
相手が誰であれ、私は常にホスピタリティの精神をもって接するようにしている。知り合いとなれば、特にその傾向は強くなる。
「紅愛ちゃんのおかげで、私は独りじゃないんだって思えた。私の健康を祈ってくれていると思うだけで、絶対長生きしてやるぞって気持ちを維持出来たんだよ」
「……それは、田島さんが良い人なだけだよ。他の人は私のことをそんな風に思ってなんて」
「私の周りは皆言っているよ」
私の自己否定を、田島さんは力強く否定してくれる。田島さんの目を見れば、嘘や慰めで言っていないことはすぐに分かる。
「なんで今になってそんなことを言ってくれるの?」
田島さんからアドバイスみたいなことを聞いたことは今まで一度もない。なのに、私がどう生きるべきか考えて、答えを求めている時になんで……。
「ここ最近の紅愛ちゃんが迷っているみたいだったから」
「……えっ」
的を射貫く正確無比な田島さんの言葉に、私は間の抜けた声を漏らした。
彼に振られてから、確かにずっと私は悩んでいる。だけど、田島さんや患者さんに会った時は顔に出さないようにしていた、はずだ。
「分かる、の?」
「私たちは幸先短いかもしれないけどね、その分人を見る目は培って来たつもりなのさ。深い事情までは分からないけど、その人が悩んでいることくらいは分かる。私は悩むことが悪いとは言わないよ。悩んで、向き合ってこそ、見えるものもある。でもね、過度な悩みや心配は、その人の身も心も蝕んでいく。私はそうして病んでいく人を何度も見て来た」
「……田島さん」
現在進行形でその状態にいる私は、田島さんの言葉が身に染みて痛いほどに理解することが出来た。田島さんの言葉のニュアンス、そしてその哀し気な表情から、きっと田島さんに親しい人もそうなってしまったことがあるのだろう。
「今は辛いかもしれないけれど、紅愛ちゃんなら大丈夫だよ」
「なんでそう言えるの?」
「だって、まだ笑っているじゃないか。紅愛ちゃんの笑顔はね、周りの人を明るくしてくれる。紅愛ちゃんによって明るくしてもらった人が、紅愛ちゃんを更に明るくしてくれる。だから、紅愛ちゃんは大丈夫さ」
私が何も言えずに静かに田島さんを見つめていると、「大丈夫、大丈夫」と更に朗らかな笑顔で言ってくれる。
「それじゃあ、そろそろ診察の時間だから、お暇させてもらうね。いつもありがとう、紅愛ちゃん」
そう言うと、田島さんはベンチから腰を上げて歩き出した。その歩き方は、何も知らない人からしたら、違和感なく映っていることだろう。
だけど、私は知っている。田島さんがどれほど頑張って、苦しんで、あそこまで歩けるようになったのかを。
そして、そんな背中を見て、私の胸中に一抹の感覚が過った。
どこか懐かしくて、大切な記憶――、いや、違う。ずっとずっと私は感じていたけれど、すぐさま別の感情で上書きすることで、蓋をしてしまった感情。
また心の奥へ過ぎ去ろうとする感情を、必死に手繰り寄せる。
「……あ、そっか」
ここで、私は確かな手応えを感じた。
<――④へ続く>
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