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上を見ても、下を見ても、この世界には竜がいる。
上にいる竜は、大きく長い体躯で優雅に空を舞っている。下にいる竜は、人と同じ形をして、我が物顔で地を歩いている。
空を舞う竜も、地を歩く竜も、人間と同じ生活を送ってくれるなら、誰も恐れ不安になることはなかっただろう。
しかし、竜の生態は人とは異なっていた。
地を歩く竜は、基本的には温厚で人間に近しい知性を持っているが故に、まだ意思疎通が取れる。けれど、どこにあるかも分からない竜の逆鱗に触れてしまえば、竜は怒りを放ち、人々に歯牙を向ける。一度我を忘れてしまえば、そこらへんにいる獣よりも怖ろしい化け物に転じてしまう。
天を舞う竜は、そもそも人間と住む主観圏が違っていた。だからといって、無視をしても良いという話ではない。潜在的に威圧感を与えるような漆黒に身を染めている竜は、時々竜の体躯から雨のような異物を放つ。その瞬間を確かに人々の目は捉えているのに、地上に落ちそうな頃には誰も行方が分からなくなる。竜の体から放たれた異物の正体、また竜の生態の仕組みは、現時点でも解明されていない。得体の知れない物を放つ竜が空にいるというだけで、人々にとっては畏怖そのものだ。
それ故、人々の生活は竜によって脅かされていた。
地を歩く竜がいる町に留まることは、出来るだけ避ける。空を舞う竜が見えなくなる夜は、出来るだけ外を歩かない。
これがこの世界に住む人々の、共通ルールとなっていた。このルールによって、人々は定住することが出来ず、移動ばかりを強いられた。
この世界の支配者は、間違いなく竜だ。
この竜のいる世界に生きる人間は、口に出さないだけで誰しもが、
「――竜なんて嫌いだ」
私、ココロ・ヴァレジアは、手にしていた書物を閉じると、埋め尽くさんばかりに空を舞う竜に向かって憎々し気に呟いた。
竜に怯え惑い、楽しみもない世界の中で、私の唯一の楽しみは本を読むことだ。
本を読めば、私の知らない世界を体験することが出来るし、不安に押し潰されそうな心も何とか保つことが出来る。
特に私が好きな本は、竜がいない太古に記された本だ。
今の私たちには到底信じられない話ではあるが、竜のいない世界というのは、確かに存在していたらしい。その文献に記されている世界は、昼も夜も関係なく、誰しもが自由に町を巡り、肩を組ながら笑っていた、と今では到底考えられない平和そのものの世界だ。私はそれに憧れを抱く。
しかし、いつの間にか竜が世界中の至るところに蔓延るようになった。その詳しい経緯は、どの文献を読み漁っても記されていない。
竜がいつからこの世界にいるのか、どこから生まれるのか、それは誰にも分からない。
現実から分かる事実は、世界中を集めた人口よりも、今や竜が蔓延っているということだ。それは、世界の至るところで人間が倒れてしまったり、竜が増えてしまっているからだ。
このまま行けば、この世界は竜によって完全に支配されるだろう。
「そんな世界、私は嫌だ」
私が願う世界は、竜の影響を受けることなく、どこででも静かに物事を考えることが出来る世界だ。
たとえば、私が今いる場所。
空を舞う竜の姿が視界を過ってしまうものの、それ以外は、辺り一面を覆い尽くすような草原に身を委ねながら、全身で世界を感じることが出来る。
最近ここらへんの地域に逃げて停留所を設けたばかりだけど、この場所は私のお気に入りの場所だ。
「竜さえいなければ、ずっといれるのに……」
叶うことのない願望が、つい私の口から零れ落ちる。
この世界の人々は、竜に支配されていると分かっていながらも、竜がいる現実を受け入れて生活を送っていた。
抗う術がないから仕方がないとはいえ――、
「いつかあの竜を――」
「相変わらずぶっ飛んだこと言おうとしてるな、ココロ」
空に向かって握り拳を作ったところで、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。その声に振り向けば、
「ケッキー」
ケッキーことケキ・フレンシップが、私の隣に立っていた。ケッキーは私含め十人の小グループをまとめている人物だ。真面目で細やかな性格から、ケッキーの人望は厚く、的確なケッキーの指示に従うことで、竜を避けながらここまで生きることが出来た。
ケッキーが「よっこいしょ」と、そのまま私の隣で腰を下ろした。
「この世界に竜がどれだけいるか分かってるだろ。竜のいない世界なんて願うだけ無駄さ」
「……」
理論は分かる。しかし、だからといって、私は素直に納得することは出来ない。
ぷくっと膨れ面を作っていると、ケッキーが笑いながら私の頭の上に手を置いた。
「この時代の人間がやるべきことは、いかに竜から逃げて生き延びられるか、ということだ。そのために、俺達は小グループに分断しながら、協力し合っている。そうだろ?」
「でもさ、立ち向かわずに生き延びても、それでケッキーは満足なの?」
子ども扱いされた、ということもあって、私はつい意地悪な質問をケッキーにぶつけていた。
「命がないと何も出来ないからな。諦めずに生きていれば、どんな状況でも楽しいと思えるものを見つけることが出来るもんさ」
「そう無理やりに言い聞かせるんじゃないの?」
「かもな」
ケッキーは苦笑を浮かべた。
「そうでもしないと、皆をまとめることなんて出来ないんだよ。俺は皆の命を預かってるんだ」
人の命を預かるということは、相当にプレッシャーが掛かることだ。
実際に、地上の竜に激昂に巻き込まれて、私たちは命の危機に面した。しかし、ケッキーに従うことで、何とか生きることが出来た。その時のケッキーは笑みを浮かべていたけれど、その体が震えていたことを私は見逃さなかった。
「抗えない現実に一喜一憂しすぎるなよ。竜がいるのは当たり前、空気と同じだって思った方が生きるのが楽だぞ」
ケッキーは大きく腕を伸ばすと、
「さぁ、明日に備えて、皆がいる停留所に戻ろう。メシ食おうぜ」
そのまま私の隣から去っていった。
そう言えば、いつの間にか日も暮れかかっている。いささかの空腹も感じている。
しかし、私はケッキーの後について行くことなく、竜が飛んでいる空を睨み付けた。
人をまとめることが出来るケッキーは良い奴だ。ケッキーに従えば、無難に生きることは出来るのだろう。
けれど、私はそんな無難な人生は嫌だった。
竜に比べて、人間の命は明らかに短いとされている。
なのに、いつまで竜に怯えながら生きなければならないのだろう。得体の知れない物に怯えながら生き続けるなんて、それは果たして生きていると言えるのだろうか。
「必ず、空から落としてやる」
どうせ死ぬ運命であれば、たった一度でもいいから、あの我が物顔で空を舞っている竜に一矢報いたい。
それが私が物心をついた時から抱き続けている夢だ。
きっと私の夢は、まるで世界の中心に触れたいと願うような、絶対に叶うことのない子供じみた夢だ。
けれど、私はどうしても願わずにはいられない、『竜のいない世界』を――。
この時の私は、まさかこの後すぐに世界の真理を目の当たりにすることになるとは、夢にも思わなかった。
<――②へ続く>
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