***
世の中というものは、自分以外の人間は敵である。
世の中の真理を垣間見てから、早くも二年もの月日が流れていた。
人のためにただ真面目に生きることを良しとしていたあの頃の俺は、もういない。
信じていたものにさえ裏切られた俺は、一人で小さな事業を立ち上げるようになった。会社のノウハウがなかったから、様々にもがくことも多く、簡単に成功するはずもなかった。
「いい話があるんですけど」
世間を何も知らない新米経営者である俺の元に、多くの人が押し寄せて来た。
一見すると、善意のある言葉や食いつきたくなるような上手い話を、何度も何度も耳にした。
今までの俺だったら、人の善意を妄信して、そのまま首を縦に振っただろう。そして、結局は騙されることになった。
しかし、今の俺は違う。
思考停止して妄信するのではなく、しっかりと考えて見極めるようになった。
事業を行なう前よりも敵は多くなったけれど、なんとか世の中を渡り歩けるようになったのは、自分の中で軸を見つけたからだ。
聞く話や起こる現象に対して、俺のやりたいことを実現出来るかどうかを第一優先に考えて、受け入れるようになってからは他人によって苦しませられることは少なくなった。
「……懐かしいな」
まだまだ小さな事務所であることには変わりないけれど、ここに至るまでの過去なんて、とんだ昔のように思えて来る。
裏切られた直後は、確かに苦しかったけれど、今思えばこの仕事をするために必要不可欠な出来事だった。
敵に追い詰められたからこそ、生きるために俺は自分自身を見つめ直した。そうすると、不思議なことに、既存では浮かばなかった活路も見出すことも出来る。
そのことを痛感した二年間だった。
ちなみに、俺の今の仕事は――。
「誠也さん、また依頼が入りました」
この事務所の中で、唯一の職員である玄田優美が言った。
「今回の依頼者は、軽い気持ちでネットに投稿した文章が炎上してしまい、必要以上に責められることに悩んでいるそうです」
――リアル・ネット問わずに、対人関係によって発生したトラブルを解決する悩み相談所だ。
この仕事を始めようと思ったキッカケは、やはり二年前の出来事が起因している。
世の中は敵ばかりだという真理に直面したあの日、俺は同時に思った。
敵が多いということは、それだけ敵と戦って疲労している人が多いということだ。そして、それだけじゃない。敵にやられて、仕方ないから敵側になろうとしている人だっているはずだ。
俺も一瞬だけ悪の道に踏み入れようか迷ってしまったように。
だから、そういう戦いに疲れて苦しんでいる人の力になりたくて、俺は今の仕事を始めるようになった。
最初は上手く出来るか分からなかったけれど、この仕事が軌道に乗るようになったのは、間違いなく優美の力が大きい。
彼女も敵だらけの世界で傷付きながら生きていた人間だった。俺が今の事務所を立ち上げた時、最初にネットで相談を持ちかけて来たのだけど、俺と話したことで救われたと言ってくれた。そして、私も力になりたいと言ってくれて、一緒に働いてくれることを選んだ。
俺でも誰かの力になれると確信した瞬間だった。
「さて、今回も忙しくなりそうかなぁ」
伸びをしながら軽い口調で言ったものの、優美からの反応はなかった。
「……優美?」
そう問いかけると、「……今回の内容は」と優美が重たい口を開き始めた。
「今回の内容は、その、ちょっとだけ重そうに見えます。誠也さんの負荷が大きいんじゃないでしょうか……。それでも――」
「うん、それでも受けるよ。これが俺の仕事であり、俺のやりたいことだから」
当たり前のことを、俺は迷いなく言った。
「……なんで誠也さんはそこまでやれるんですか?」
優美も敵にやられて傷付いた心を持っている。依頼当初とは見違えるほどに回復しているけれど、まだ完全に吹っ切れていない様子であることは窺えた。
その気持ちは、十分に分かる。
「敵にやられたから、かな」
俺の原点を言葉にしていく。
信じていた人から裏切られて、自分の世界が暗い何かに阻まれていく瞬間は、表現できないほどに苦しいものだ。
「同じ思いを味わって欲しくない。完全に障害物を退けることは出来なくても、障害物を乗り越える方法は教えてあげられる。障害物を越えられるように、サポートをしてあげることだって出来る。これはその苦しみを受けた人にしか分からないことだと思うんだ」
俺の想いなんて、もしかしたら偽善かもしれない。余計なお世話だと言われる可能性もあるし、逆に攻撃されてしまうことだってある。実際、この事務所を始めてから、心を抉られることなんて何度もあった。
しかし、どれだけ誰かに裏切られたとしても、心のどこかで人を信じていたい。
――それが、伊達誠也という人間だ。
「強いですね、誠也さんは」
半ば羨望の眼差しを俺へと注ぐ優美に対して、「優美もでしょ?」と言う。予想外の言葉を言われたかのように、「え?」と、優美はキョトンと首を傾げた。
「優美だって同じ思いだから、一緒に働いてくれているんでしょ? なら、優美も強いじゃん」
「そう、でしょうか……。いえ、そうですね」
初めて優美の相談に乗った時、敵から非難という攻撃を浴び続けた結果、優美は自己否定を繰り返していた。
だけど、誰かから否定されようとも、その人の価値は変わらない。しかし、本人が非難を受け入れた時、自分には価値がないのではないかと思い込んでしまう。
否定的な言葉が浮かんだらすぐに考えを転換するように、俺は優美にアドバイスした。優美は俺の言葉を如実に実践して、少しずつ明るくなった。
その時の習慣が、今も優美の中に生きている。
「よし、じゃあ今日も一日頑張りますか」
「はい!」
そう言うと、俺はパソコンの前に座って、事務所で運営しているサイトにアクセスした。
<――終わり>
コメント