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空を見上げれば竜、地を見下ろせば竜。
この世界に竜がいることは、火を見るよりも明らかな常識だ。
だから、竜の被害を受けないことを前提とした生活を人々は強いられていて、私は竜のいない自由な生活を願っていた。
なのに、
「ここが、『竜のいない世界』……?」
目の前の男――アル・ジークリンデの言っていることの意味が、ただただ純粋に理解出来なかった。意味が分からな過ぎて、「あ、あは、あはは」と、最早渇いた笑いしか出てこなかった。
「ははっ、何言ってるんですか、アルさん。冗談上手過ぎですよ、この世界に竜はいないって……。いないところを探す方が難しいくらいにいるでしょ、空にも地にも! ここは竜のいる世界だよ! 私たちはそういう世界で生きなければいけないの!」
もしアルさんの言うことを真に受けてしまえば、私がずっと願い続けて来た『竜のいない世界』が、今この現実ということになってしまう。
そんなの、あまりにも救いようがなさすぎる。
「順を追って説明するよ」
私の動揺を察してか、アルさんが柔らかく声を発する。
「君の言う通り、上を見ても下を見ても、どこにでも竜はいるよね。でもね、その根本は蛇――つまり、君もさっき見たあの白蛇なんだ。下にいる人の姿をした竜は蛇が人間の体を依り代にしている状態、上にいる空を舞う竜は蛇が成長した姿なんだ」
「……依り代、……成長」
その掻い摘んだ二つの単語だけでも、最悪の真実を想起させるには十分だった。
「こことは違う、遠い国の言葉で――」
アルさんは説明を続けていく。
「海千山千の蛇は竜になる、という言葉がある。簡単に説明すると、成長した蛇は竜と化すという意味なんだけどね。蛇の性質を表現するのに、まさしく適した言葉なんだ。起源までは分からないが、昔々に一匹の蛇が生まれた」
まだ小さな蛇は、ある時、細く小さな体を滑り込ませて人間の体内へと潜り込んだ。人間の体内は、どうやら蛇にとって栄養以上に甘美な蜜があるようで、蛇は蜜を啜り続けた。蜜を啜るだけではなく、体内に入り込んだ存在の細胞まで変化させる性質を持つ蛇は、依り代に選んだ人間の姿を変質させた。そうして、蜜を啜り続けて成長を遂げた蛇は、依り代としていた人間の口を突き破って、空へと舞うようになった。
空を舞うようになった竜は、自身の子孫を残すために、体内から自身の細胞を分離させ、地へと放つ。放たれた蛇は、人間の中にある甘美な蜜の味を憶えているため、より熟された人間を狡猾に襲う。
襲われた人間はまた……、その繰り返しを、この世界に蛇が現れてからずっとずっと行なわれ続けて来た。
結果、人間は続々と数を減らし、竜のような姿をした蛇のいる世界が生まれてしまった。
――アルさんの説明をまとめると、こういうことだった。
私の想像以上に残酷な真実を聞いて、頭が可笑しくなりそうだ。しかし、実際にこの目で見てしまった以上、受け入れないわけにはいかなかった。
一旦受け入れた上で私は――、
「……質問が、いくつかあります。聞いても良いですか?」
感情の弱くなった声で、なんとか問いかける。「気の済むまで」、とアルさんは優しく言ってくれた。
気分を整えるため、私はゆっくりと息を吐いた。
「人間の中の甘美な蜜とはいったい何ですか? そんな抽象的なものが人間に存在しているとは思えません」
「ここだ」
アルさんは胸の中心を指さした。私の「……心」という呟きに、アルさんは首肯することで正解だと示す。
「たとえば、人を憎む気持ち、許せない気持ち、怒り、諦め、そういった人間の心、いや負の感情を、蛇は餌としているんだ。そして、更に蛇にとって御馳走になるのは、負の感情よりももっともっとマイナスの振り幅のある感情、つまり邪の感情だ。口にするのもおぞましいくらいだから、明言は割愛するけどね」
邪の感情がどんな感情かを察するのは、あまりにも容易だった。私もこれ以上は追求しない。蛇が求めている蜜の正体が分かったことで、更なる質問が思い浮かぶ。
「ケッキーはどうして人のまま倒れているのですか?」
アルさんの説明を鵜呑みにするのなら、ケッキーは竜のような姿になっているはずだ。なのに、姿を変質させることなく人間の姿のまま倒れているのは、どういうことだろう。
「蛇の依り代に相応しくなかった」
淡々とアルさんは答える。
「蛇が求めているのは、負の感情が強い人間だ。もし、蛇の基準に満たない負の感情の持ち主だったら、ただ体内を蹂躙し、喰われ、命を失うことになる」
「つまり、ケッキーは良い奴だったから、蛇の依り代に選ばれず、ただ蛇の肥しとなったということ?」
「そういうことだね。けれど、あえて一つだけ酷なことを言うと、本当に善良な人間の元には蛇は来ない。来たとしても、すぐに蛇は逃げるんだ。だから、彼は――」
「そこまで聞ければ十分です」
アルさんの言葉を、私は止めた。
私たちの小グループをまとめていたケッキーは、いつも優しく、私たちを導いてくれていた。
しかし、誰も危険な目に合わないように上手く導かなければいけない、という重圧によって、ケッキーは多くの負担を心身に抱えていた。誰にも吐き出さなかったけれど、心の中で負の感情をたくさん湧き上がらさせたことだろう。それが、先ほど爆発させてしまい、運悪く蛇を呼び寄せてしまった。
本当のケッキーは完全に善良な人間ではなかったかもしれないけど、近くにいた私たちにも出来たことはあったはずだ。
後悔が押し寄せるけど、ずっと頭を抱えていては前に進めない。
「そしたら、次の質問です。地を歩く蛇が、空を舞う蛇になるための条件は?」
「蛇が成長を遂げるために要する時間は、六十六年とされている」
「人生の半分以上も……」
「そう。蛇は人の人生を台無しにして、成長を遂げる存在なんだ。もちろん空を舞うまでに、依り代としている人間の体が持たなかったら、そこで人諸共に蛇も命を落とすけどね。だけど、基本的に邪の感情を啜る蛇は、並大抵のことでは命を落とさない」
「アルさんはどうやってその年数を突き止めたんですか? 見たところ、六十六年どころか、その半分も生きていないように思いますけど」
「私は何もやっていないよ。私の師匠とそのまた師匠に当たる人物が、二人の人生を懸けて究明したんだ」
今存在しているものは、先人達の努力の賜物によって成り立っている。それは物だけじゃなく、食も、本も、知識もそうだ。けれど、その努力に目を向けることなく、私たちは苦労することなく良いとこ取りをしてしまっている。
アルさんを通して教えてもらった、この残酷な世界の真実も、アルさんの師匠の師匠、そのまた師匠の師匠といったように、きっと何人もの先人達が少しずつ解き明かしていった。
今日ここで真実を知れた巡り合わせに、私は感謝しなければならないだろう。
「最後にもう一つだけ質問していいですか?」
「もちろん」
「蛇に一矢報いる方法は?」
アルさんが大きく目を見開いた。まるで私の質問が心の底から想定外だったかのようだ。
「私が願うのは、奴らのいない世界なんです。でも、このまま何もしなければ、それは絶対に叶わない。もうただ指を咥えて、やつらが増えていくのは耐えられません。もし私の夢を成す方法があるのなら、私はどんなことでもしてみせます」
質問をぶつけた意図を説明すると、アルさんは一人何かを噛み締めるように、ゆっくりと頷いた。
そして、アルさんは私を真っ直ぐに見据えると、
「……蛇に一矢報いる方法、と呼んでいいかは分からないが、蛇がもっとも嫌うのは、これもまた心だよ。善良な心、最後まで蛇を否定する心、それらの感情を最も蛇は嫌う」
「なるほど。だから、私は蛇を拒むことが出来たんですね」
先ほど蛇が私の中を蹂躙した時のことを思い返す。確かにあの時の私は、一瞬全てを投げ出しそうになったけど、絶対に蛇を拒絶するという想いで胸を熱くさせた。
しかし、ほとんどの人が耐えられずに蛇に呑まれてしまうというのも、また納得出来た。
人は弱い生き物だ。ちょっとした苦痛が押し寄せるだけで投げ出したくなるし、心に押し寄せる邪悪な感情に打ち勝つことが出来ずに衝動のまま行動することもある。
この世界に蛇が満ち溢れることが、人間の弱さを示す何よりの証拠だ。
それでも、人間誰しも蛇に一矢報いる武器を持つことが出来る。
善良な知識と、理性があれば、蛇を退けられるのだ。
「そうすると、必要なのはこの真実を多く広めること……なのか?」
竜の、否、『蛇のいない世界』を作るためには、それこそ全人類にこの真実を伝えなければならない。
考えれば途方もない道のりだが、私の夢を叶えるために――。
「……アルさん?」
ここまで考えていると、アルさんがまだ私のことを見据えていることに気が付いた。
先ほどのように私を見定めているかのような視線ではなく、純粋に私に興味を持っているように熱が灯っていた。
私と視線が重なったことに気付いたアルさんは、小さく咳払いをすると、
「君は、絶望しないのかい? この残酷な真実を聞いて……」
「……正直、聞いた瞬間は頭が狂いそうになりました。でも、討つべき相手の認識が竜から蛇に変わっただけのことで、一矢報いてやりたい気持ちには変わりありません。いや、むしろ真実を聞いたおかげで、やることが明瞭になりました。絶望してる暇なんてないし、それこそ奴らの思う壺じゃないですか」
そこまで一息に言うと、「強いな」とアルさんが言った。
「この真実を聞いた者の多くは、否定し、拒絶し、荒唐無稽な言葉だと私を叱責した者もいた。そして、その結果、負の感情を好む蛇の依り代になってしまった者もいたんだ。なのに、君は未来を描き続けている」
そこで一度言葉を止めると、アルさんはふっと微笑んだ。
「そんな君のことを、私はもっと知りたくなった。この先の道中で、君のことを詳しく教えてくれないかい?」
アルさんは私に向かって手を伸ばした。アルさんの手を見て、この手を掴んだ瞬間、現実に送り届けられて夢から醒めてしまうのだと直感した。
私はその手を掴むことなく、「……私、停留所に帰りたくないです」、と首を横に振った。そんな私を見て、アルさんはくすくすと笑った。
「行き先は決めていないが、停留所には行かないよ」
「え、だって話が終わったら、責任を持って停留所に送り届けるって」
「あぁ、気が変わった。君の夢と私のやりたいことは同じだ。だから、世界がより良くなるために共に行動をしてくれないか、ココロ」
倒れ込んでいた私を起こし上げるために伸ばした手と違って、今アルさんが差し伸べている手は私の意志を問うている。
その答えは、一切迷うことなく決まっている。
差し伸べられた手をギュッと握り、
「こちらこそお願いします」
この『竜のいない世界』で『蛇のいない世界』を実現させるために、前に進むことを決意した。
<――終わり>

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