・『竜のいない世界』①
・『竜のいない世界』②
***
蛇が私の体内に入って来る直前、時間の流れが止まったかのような錯覚を抱いた。
白い胴体に赤く鋭い目が私を射捉えた時、私の内側まで全てを見透かされているような気分になった。まるで目の前に用意された料理を見定めているようだった。そして、蛇は細長い舌をしゅるりと出すと、
「……うぐぅ、おぇ、え、う、ぁ」
迷わず私の口に侵入して来た。異物の侵入に、喉や胃だけじゃなく、『ココロ・ヴァレジア』という人間を構成している全細胞が拒絶の声を上げる。
しかし、それで蛇が侵入を止めてくれるはずがない。無駄な拒絶を嘲笑うかのように、蛇は体躯を大きく動かしながら、私の中心を目指して突き進む。
不安や恐怖、怒り、などといった負の感情が、私の心に嵐のように湧き上がる。荒れる心に正常を保つことが出来ず、発狂してしまいそうだ。もし蛇が私の口を塞いでいなければ、衝動のまま、奇声を上げて発狂していたことだろう。
「ふぅ、う、ぉ、っ、え、ぇ、……っ」
呼吸すらままならなくて、どんどん力が入らなくなって来る。目に涙が溢れ、意識も朦朧として来ていることもあって、もはや視界を鮮明に保つことすら困難だ。
どうしても抗うことの出来ない現実に、もう何もかもがどうでも良くなってきた。全てを諦めた方が楽なのではないかと思えてしまう。
(……このまま終わってしまうのかな)
私の人生はなんだったんだろう。竜に自由を奪われ、最後はこんなよく分からない蛇に殺される。
私の願いなんて、無謀だけど、単純だった。
竜のいない世界で生きたい。ただそれだけを願っていたのに、その世界を一度も見ることが出来ないなんて。
(……そうだ)
私は竜のいない世界を目指してるんだ。
こんなところで、こんな竜を縮小させたような蛇ごときに、夢半ばにしてやられてたまるか!
そう思えば、諦めそうになっていた私の心に火が灯った。
蛇を食い千切らんばかりに歯に力を入れ、蛇の胴体を握り締める。
早く離れろ。じゃないと、このまま咬み千切ってやる。
声に出せない想いを全神経に籠める。
やがて、私の想いが成就したのか、喉の中にまで入り込んでいた蛇がもぞもぞと戻って来るような動きを感じた。その隙を逃さず、私はパッと口を開けると、蛇を引っこ抜いた。
拠り所がなくなり、姿が露わになった蛇は、私の手から逃れて地に落ちた。
「や、やった……」
蛇の侵入を防ぐことには成功した。蛇はカサコソと地を這って逃げようとする。ここで逃がしたら、私やケッキーのような被害者が現れてしまう。それだけは避けなければいけない。
「に、にがさ……」
なのに、私の足は蛇を追いかけることは出来なかった。体中の力が尽きたように、その場でへたり込んでしまう。
当然だ。今まで蛇の侵入を拒むことに全神経を注いでいたのだ。蛇を追いかけるための体力なんて残されていない。
あと数分も経てば、動けるまでの体力は戻るだろうけど、それでは蛇を逃してしまう。
蛇による被害を広げないために、そして、この竜のいる世界の真相に近付くために、私は動かなければいけない。なのに、心で願うだけでは、体が動いてくれない。
「だ、誰か……へび、を……」
あの蛇を捕まえて欲しい。
でも、私の祈りは誰にも届かないことを知っている。
夜に出歩くことを暗黙的に禁じられているこの世界で、外に出歩く人間なんているはずがないのだ。もし私の声に応じる者がいれば、それは死にたがりな馬鹿か、よほどの世間知らず。もしくは――、
「任せて」
頼もしさが伴なう声と共に、私の横を風が通り過ぎていった。願った本人であるにも関わらず、一瞬何が起こっているか分からず、「え?」と間の抜けた声を漏らした。
風の先に目を向けると、剣を手にした男が颯爽と駆け抜ける姿が、そこにはあった。
男の足は速く、瞬く間に蛇との距離を詰めていく。しかし、それでも、男と蛇の間には、ある程度の距離が保たれたままだった。
「逃がさない」
男は思い切り地面を蹴ると、跳躍し蛇との距離を一気に詰めた。いや、ただ詰めるだけではなく、男の剣の切っ先は蛇を捉えている。
着地と同時、男は蛇の体を地面に突き刺した。蛇は断末魔を上げながら、細長い舌を出した。あまりの煩さに、私は思い切り耳を塞ぐ。至近距離で聞いているはずの男は、耳を塞ぐことなく、蛇の一挙手一投足を静かに見下ろしていた。
そして、断末魔が止むと、蛇は舌を伸ばしたまま動きを止めた。
「……なにが」
何が起こったのか分からなかった。
夜に外を出れば竜が闇を払うほどに眩い光を口から放ち、その落ちた光源を追えばケッキーの体内に蛇が侵入しているところを目撃し、ケッキーが倒れたかと思えば次に私が狙われてしまい、なんとか気力を振り絞って蛇を拒んだかと思えば見知らぬ男が逃げた蛇を手慣れたように突き刺した。
状況は説明出来るけど、理解はしていない。それほどまでに現実離れした出来事が、私の目の前で連続的に繰り広げられていた。
唯一分かることは、夜空の下を堂々と歩くこの男が、この世界の秘密を知っているということだ。
男は軽やかに柄へ帯刀すると、私の方へと歩みを寄せて来る。先ほど蛇を刺した時とは打って変わって、人当たりの良い笑みを浮かべていた。
「もう大丈夫だよ。怖かっただろう?」
流れるような動作で差し伸べられた手を、私は反射的に掴んでいた。私は軽々しく引っ張られ、体を起こしてもらう。男の手が私から離れると、私は衣服の汚れを両手で払った。
「えっと、ありがとうございました。ところで、あなたはいったい……」
「私の名前は、アル・ジークリンデ。そういう君は?」
「私はココロ・ヴァレジアです」
「ココロ、か。ココロ、一人は危険だから、停留所まで送り届けよう」
そう言うと、アルと名乗った男は踵を返して歩き始めた。
私はその背中を、
「待ってください、アルさん。私、まだ帰れません」
追いかけるのではなく、呼び止めていた。振り返ったアルさんは、怪訝そうな表情を浮かべている。
「何故だい。夜は危険だと身に染みて分かっただろう。悪いことは言わない。早く停留所に戻った方がいい」
アルさんの言うことは正論だ。アルさんと一緒に帰れば、私は停留所に無事に帰って、何事もなかったように朝を迎えることが出来るだろう。
しかし、
「ケッキーの命を奪った蛇の正体、そして竜との因果関係を知りたいんです。アルさん、あなたなら知ってるんじゃないですか? いや、それだけじゃない。アルさんなら、竜に一矢報いることも出来るんじゃないですか?」
このまま大人しく帰ってしまえば、また私は『竜のいる世界』で自由を奪われながら生きなければならない。
それだけは御免だ。
「私、竜によって自由が縛られている世界でこれ以上生きたくありません。竜のいない世界で生きたい」
アルさんは私のことを値踏みするように上から下まで視線を移動させた。
「君が知りたがっていることは、今体験したことよりも残酷なものになるだろう。もしかしたら、知らなかった方がよかったと後悔するかもしれない。……それでも、君は真実を知る覚悟はあるかい?」
「あります」
視線を反らすことなく、私は真っ直ぐに答えた。
私の意志の固さを受け取ってくれたのか、「分かった。話が終わったら、私が責任を持って停留所まで送り届けよう」と肩を落としながら言った。
そして、アルさんは真っ直ぐに私のことを見ると、
「この世界に、竜は存在しない。ここは、竜のいない世界なんだ」
天地がひっくり返るような言葉を、確かにハッキリと口にした。
<――④へ続く>

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