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バタフライエフェクト、という言葉の意味を、これほど実感した日は、後にも先にもないだろう。
プロジェクトチーム内の小さな綻びには気付いていた。
けれど、俺自身がプロジェクトリーダーになったのが初めてで、どこまで突っ込んでいいか分からなくてスルーしてしまった。しかし、時間が解決してくれるだろうと思って放置した結果、坂居先輩と穴村の仲は更に深まってしまった。
安済先生の講話を聞いたこともあって、さすがに俺は行動に出た。
なのに、過去の俺の小さな行動が、俺に対する印象を悪くしてしまっていたようで、俺の行動は悪手となってしまった。
まさしく蝶の小さな羽ばたきは、遠く離れた地に竜巻を引き起こした。
過去の小さな行動を悔やもうとも、もう遅い。あの時の俺は、後の行動がどのように結果になるか分からず、ただ周りに合わせるように何も考えずに行動した。
人は大きいことに対しては、誠実になることは出来る。しかし、小さければ小さいほど蔑ろにしてしまう傾向がある。
だからこそ、小さなことでも忠誠を尽くさなければ、普通を逸脱することは出来ないのだ。
「……こういうことか」
今になって安済先生の話を理解した。
もちろん幼い時の行動を全部完璧にすることは出来ない。しかし、誰かの小さな行動が、大きな変動を起こすことは常に意識しておくべきだ。
プロジェクトが始まった時にすぐ、俺は自分の過ちを二人の前で謝罪し、尚且つ坂居先輩と穴村の個性を理解して仲違いしないように注意すべきだったのだ。
なのに俺は、ただプロジェクトリーダーとして形だけ上手くまとめることだけを考えてしまった。
「はぁ」
やり直せない過去に対して、俺は溜め息を吐く。
俺は何をやっているのだろう。取引先の会社に来て大事な商談をしていたというのに、昨日のことが頭に残って、身が入らなかった。
今も取引先が入っているビルのエントランスのソファに座って項垂れている。
こんなソファに留まっているところを先方に見られたら、プロジェクトが失敗に終わってしまう。
「おや、君は」
そう思った矢先、俺の頭上から既視感のある人物に向けるような親しみの籠った声が聞こえた。顔を上げると、そこには柔和な雰囲気を纏った五十代後半くらいの人物が立っていた。
「やっぱり。確か古泉くんだったかな」
俺は目の前にいる人間に心当たりはない。しかし、相手の話しぶりから察するに俺のことを知っているようだった。「えっと」、最近見たことがあるような気がするけれど、名前を思い出すことが出来なかった。
「ああ、いいんだよ。私はこの会社の副社長を務めている清水と言います。古泉くんのことは、安済先生の講演会で見かけたことがあったんだ」
「あ」
思い出した。
安済先生の講演が終わった時、俺は安済先生にお礼の言葉を伝えに行った。その時、安済先生の周りを数人の大人たちが囲んでいたけれど、その中に清水さんがいた。だから、最近見覚えがあったんだ。それにどことなく柔和な雰囲気が、安済先生に似ている。
清水さんはニコリと微笑むと、
「今日はどうしてうちの会社に?」
純粋な問いかけに、どう返事するべきか言葉を詰まらせた。しかし、それも一瞬だけで「この前話したプロジェクトの一環として、どうしても御社と取引をさせて頂きたくて伺ったんです」と正直に話すことにした。
「そうか。無事に取引出来たかい?」
「ええ、まぁ」
「その割には浮かない顔をしているね。何か悩みでもあるのかい?」
大企業の副社長を務めている方だ。人の顔色を見抜くのが上手い。
講演会で一目見ただけで、俺と清水さんには何の関係性もない。ましてや取引先の副社長の立場にある人だ。俺の身の上話をすることで、俺の会社に対するマイナスの印象を与えてしまうかもしれない。
「……プロジェクトのメンバー間の仲が良くなくて」
なのに、つい言葉が漏れていた。
「俺、適当な人間なんですよ。今の立場だって、要領よく適当にやっていたから、たまたま運よく選ばれただけです。本来リーダーってものは、責任感の強い人がやるべきものなんだ」
そうだ。俺は周りに合わせて適当に仕事をこなす人間だ。
周りからはみ出ることが怖いくせに、自分を低く見積もられたくなくて、本心とは違うこびへつらった言葉を言う。
俺みたいな自己中心なガキが人を導いて仕事の成果を出すなんて無理な話なんだ。
「そうかな。私はそうは思わないよ」
しかし、清水さんの言葉は俺の考えとは裏腹なものだった。会話もろくにせず、たったの一度だけ見たことのある人間の何が分かると言うのだろうか。
「あの安済先生の講話の後、直接お礼を言いに来た人が何人いると思う?」
清水さんの質問は唐突だった。
俺は当日の会場の状況を思い起こす。講壇に安済先生が立っていて、その前には長テーブルがいくつか並べられていた。そこに座っていた人数は、確か五十人。多くの人は安済先生の話が終わったと同時に会場を後にしたけれど、さすがに何人かはお礼を言いに行ったはずだ。
「十人くらいですか?」
しかし、清水さんは首を横に振る。そして言った、「君だけだよ」と。
「本当に適当な人間ならば、わざわざ講話の後にお礼を言いになんて来ないんだ。なのに、君だけは安済先生に挨拶をしに来た。しかも、周りに人がいたにも関わらずにね。だから、私は古泉くんのことを適当な人間だとは思わない」
「でも、それは」
「古泉くん」
清水さんは俺が紡ごうとする言葉を、優しく止めてくれる。
「君には自分でも気付いていない誠実さがある。だから、今問題に直面しているからといって、行動することをやめたらダメだ。確かに問題と向き合わなければ、楽になるだろう。でもね、そうしたら君のプロジェクトは間違いなく死ぬだろう」
「俺、どうしたら」
清水さんは俺の中に何かを見出してくれているようだけど、俺にはそれが何かは分からない。つまり、それは俺が何をすべきかが明確になっていないということだ。
「一つ一つ学んで、しっかりと向き合いなさい。誰かが投げた小石に躓かないほどに、成長しなさい」
清水さんが俺の肩を掴んだ。
「君なら出来るよ」
俺と清水さんは、今日初めて話したような浅い関係だ。
しかし、それでも清水さんが俺のことを力づけようとしてくれたことは、この肩を掴む力によって痛いほどに伝わって来た。
「頑張ります」
だから俺は、素直にそう頷くことが出来た。
<――④へ続く>

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