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[小説]ロストワード①

 ***

 社会人としての生活も慣れ始めたこの頃、昔の想い出に浸ることが多くなって来た。
 その想い出に出て来る人物の名前は、桐郷譲――俺がお世話になった個人塾のセンセーだ。

 センセーの学習塾に通ったのは、小学生から高校生、そしてバイトの教員として大学の四年間。人生の半分以上の時間を、俺はセンセーの元で過ごしていたことになる。

 俺が人の輪の中に入ることが出来たのは、上岡伊知郎という俺の名前から『チロ』というあだ名をつけてくれたからだ。

「――チロ、よく出来たね」

 センセーが俺に対してあだ名を付けてくれただけでなく、生徒一人ひとりに真摯に向き合っては褒めてくれたから、常に俺は自信に満ち満ちていた。

「へへっ、当然じゃん。センセーが教えてくれるんなら、何でも出来るよ! ねぇ、見て見て」

 センセーはただ授業を進めるだけでなく、日常生活の中で役立つことをたくさん教えてくれた。センセーは博識だった。

 だから、センセーに教わる度に、センセーから褒めて貰いたくて必死に頑張った。自分に出来ないことに挑戦するのは面倒で大変だったけれど、今振り返ると、あの時ほど楽しかった時間はなかったと思える。
 褒められたいだけの子供が、ただただ気を引くように行動しているだけだとセンセーには気付かれていただろうけれど、それでも良かった。

 そんな小学時代のある日、俺はセンセーと二人きりになったことがある。

「いいかい、チロ。人生は一生学び続けることが大事だよ」
「ええー」

 開口一番そう言われた小学生の俺は、嫌そうな表情を露骨に浮かべていたと思う。でかでかと貼られた『生涯学び続けること』という教訓の文字を見る度に、正直面倒だなという感想を抱いていたものだ。

「そんなの嫌だよ。勉強なんて役に立つか分からないし、学校を卒業したらもうしたくない」

 センセーの学習塾に通い続けているのだって、勉強が好きだから通っているわけではなかった。
 しかし、センセーは俺の文句を笑って流す。

「学ぶことは楽しいことだよ。私自身たくさん学んで来たから、こうしてチロや皆に教えることが出来ているんだ」
「……センセーも学んでるの?」

 センセーは最初から何でも出来ると思い込んでいた俺は、純粋に疑問符を抱いた。

「もちろん。学ぶことは難しいことじゃないんだ。教科書や参考書、伝記、人とのやり取り、移ろう自然に、自由に生きる動物――、何からだって学ぶことは出来る。心に気付きを得て、自分がよりよく変わっていくことが成長に繋がっていくんだ。学んで、どんどん成長していけば、生きることも楽しくなって来る。でもね、学び続けるためには、あることが必要になるんだ」
「あること?」

 オウム返しをした俺の頭を撫でたセンセーは、満面の笑みを浮かべながら、

 ――『■◆●▲●●■◆●■◆●●●●』。

 思い出そうとしても、センセーの言葉は虫食いのように抜けてしまっている。
 俺の中の肝心な記憶は、いつもこうして終わりを告げ、現実に寂しく冷たい風を吹かせる。

「……センセー、あの時俺に何を言ったんだよ」

 センセーが話した言葉が、俺にとってかけがえのないものだということは直感的に分かっていた。なのに、どうしてそんな大切な言葉を、俺は忘れてしまっているんだろう。

 センセーの学習塾に生徒として通っている時は、何も思わなかった。なんか良い言葉を言っているなぁ、というちょっとした感慨を抱いていたくらいだ。
 それよりも、ただセンセーと一緒にいることが好きだった。

 センセーはいつも子供たちのことを見てくれていて、いつも楽しい話をしてくれる。高校を卒業して塾に通う必要がなくなってからも、センセーと離れることが嫌で、幼馴染のテンと一緒にセンセーの塾を少しだけ手伝ったりもした。
 今振り返ると、充実した青春時代を過ごせていたと思う。

 そして、大学を卒業すると同時、俺は一般企業に就職し、テンもベンチャー企業に就職した。それから、センセーと会うことはパタリと途絶えてしまった。

 いや、実際はセンセーのことを懐かしく思って、センセーの自宅も兼ねている学習塾に足を運んだことはあった。しかし、学習塾はしんと静まり返っていた。何があったのだろうか、ご近所さんに訊ねると、センセーは病気を患って入院してしまったとのことだった。家に戻るのに何年かかるか分からない状況らしい。
 センセーの入院先の病院を教えてもらい、その場を後にしたが、あのセンセーが弱った姿を現実として認めたくなくて、一度も病院には行ったことがない。

 それが、今から六年前の話だ。

 時間が経てば忘れられると思った。いつまでも過去の想い出に縋り続けてはいけない、とも思っていた。
 けれど、ダメだ。
 あの時と今を比べると、どうしても昔の方が楽しかったという感想をやはり抱いてしまう。

 仕事が嫌だというわけでもない。それなりに楽しく無難にやっている。なのに、どうしても過去を良く思ってしまうのは何でだろう。
 俺がまだ大人になりきれていないからだろうか。

「……もしも、あの時の言葉を思い出せたら」

 思い出せたら、俺は過去のように楽しく過ごせるようになるのだろうか。

 そんな淡く虚しい妄想を、俺は自ら一笑に付した。
 どれだけ思い出そうとしても思い出せないのだ。あの日の言葉を知る術はない。どうしても知りたいのなら言葉を投げかけてくれた本人に問うのも手だが、あいにくセンセーは入院していて、会うことは叶わない。

「そもそもセンセーが憶えてるはずないか」

 この渇きに似た思いを満たすために、今の俺に出来ることは――。

「テン、テン、テ、テン、テン、テ、テ、テン……あった」

 スマホのアプリで幼馴染の連絡先を引き出しては、そのままメッセージを送った。

――②へ続く

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この記事を書いた人

 東京生まれ 八王子育ち
 小説を書くのも読むのも大好きな、アラサー系男子。聖書を学ぶようになったキッカケも、「聖書ってなんかカッコいい」と思ったくらい単純で純粋です。いつまでも少年のような心を持ち続けたいと思っています。

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