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[小説]ロストワード②

ロストワード①

 ***

「俺のこと、イチって呼ばないでよ」

 センセーの塾に通い始めたばかりの俺が、センセーに向かって駄々をこねるように言う。泣きべそを浮かべる俺の隣にいるのは、幼馴染のテン。我関せずと言った表情で、そっぽを向いている。誰のせいでこんなことになっているのかと、内心思いながら、

「テンとイチじゃ、俺が十吾に劣っているみたいだから嫌だ」

 過去の俺がセンセーに向かって泣きじゃくる。当時の俺は、伊知郎という名前からイチと呼ばれることが多かった。そして、幼馴染である十吾はその名前からテンと呼ばれていた。一と十、見栄えが全ての小学生には、大きな違いだった。

 困る質問であろうことは重々分かっていた。実際、幼い俺を満足させる答えは出てこないだろうと高をくくっていた。

「じゃあ、チロはどうだ?」

 なのに、センセーは俺の頭をポンと触れながら、新しい呼び名を与えてくれた。

 俺が抱いている悩みを明確に見抜き、的確な答えを与えてくれる聡明さ。

 単純な話だけど、その瞬間から俺はセンセーのことが好きになって、この人の言うことは絶対に従おうと幼心に決めた。

「――今思うと、ほんとガキだったよな」

 エレベーターで一気に上層へと昇りながら、俺はこれから会う人物――幼馴染のテンについて思いを馳せていた。

 俺とテンは小学校から大学までずっと一緒だった。同じ教室で学び、同じ塾に通い、同じ部活に所属して、バイト先までもセンセーの学習塾と同じだった。

 俺と一緒で、テンもセンセーからたくさん学んで来た。言うなれば、俺と同じ境遇だ。

 そんなテンなら俺の気持ちも分かってくれるかもしれない。そう期待を籠めて、テンが経営している会社までやって来た。

 互いに大学を卒業してから六年ぶりの連絡。けれど、アカウントは昔のままだったようで、メッセージを送ったらすぐに返事が来た。様々な時間の指定はあったけれど、経営者すなわち社長の立場であるテンと会える約束を交わせただけでも本当にありがたいことだった。

 エレベーターが開くと、ガラス張りの窓から外の景色が見えた。

「ほんっとスゲーな」

 テンはベンチャー企業で二年ほど経験を積むと、独立して自分の会社を立ち上げた。四年もの間で、多くのアプリを開発し、世に出した。テン独自の着眼点が搭載されたアプリは、一風変わっていながらも、世の中に受け入れられている。今も新たなアプリの開発に手を付けているようで、業界の間では期待の星とされているようだ。

 だからこそ、都心のオフィスビルの高層棟に会社を構えることが出来ているのだ。テンが成功したことが、目に見える形で突きつけられる。

 月並みな感想を抱きながら、場違いという言葉がいかにも当てはまるような挙動で、俺は社長室を目指す。

 社長室の前に着いたので扉を開けると、びっしりとしたスーツを身に纏ったテンがいた。知的な眼鏡と、左手首に巻かれている金色の時計が印象的だった。

「一分オーバー」

「え?」

「いや、何でもない。久し振りだな、伊知郎。座ってくれよ」

 テンに促された椅子に座ると、のめり込まれるのではないかと錯覚するほどにフカフカとしていた。「ふっかふかだな」と直球そのものの感想を伝えると、テンは微笑みを浮かべた。

「親友が大成功して、マジ嬉しいよ」

「それはどうも。で、今日はどうしたんだ?」

 テンは昔から頭が良く要領の良い人間だった。結論を急ぐところは相変わらずだな、と心の中でツッコミながら、

「最近、センセーと一緒に過ごした学生時代のことばかりを思い出すんだ」

 テンの元に訪れるようになった経緯を、赤裸々に語り始めた。

 社会人になってから虚しさを感じるようになったこと、センセーから教えてもらったことを忘れている自分がいること、もっともっと自分にしか出来ないことをやらないといけないと思っていること、でも何からしていいか分かっていないこと――。

 ひとしきり語ったところで、「この気持ち、分かるだろ?」とテンに同意を求めた。

 眼鏡の奥にあるテンの目と視線が重なった。その目の温度は、親友である人間に向けられる温度ではなくて。

「話はそれだけか、伊知郎」

 ――実際、目の前にいる弱者を容赦なく切り捨てるかのように、テンの声音は冷たかった。

「え?」

「そんな無駄話をするために、俺の貴重な時間を割きに来たのかと聞いたんだ」

「む、無駄話って、お前はそんな想いを抱かないのか? センセーと過ごした昔の方が良かったって。あの時に戻りたいって……」

「戻りたい? そんなこと、あるはずないだろ。俺が今の会社を築くために、どれほど努力したと思ってる。周りから無理だと馬鹿にされながらも、血反吐を吐くくらいやり切った」

 テンの言葉が、怒涛のように押し寄せては、重く圧し掛かる。

「あの過去をもう一度経験したい? ふざけるな。もう一度戻りたいはずがないだろ。俺は今にだって興味がない。俺の望みは、未来にある。今よりも、もっともっと高みに昇るんだ。だから、俺には伊知郎みたいな感情など湧きやしない」

「じゃあ、何でセンセーから教わったことを、社訓に取り入れているんだよ? 生涯学び続けること――、それはいつもセンセーが言っていたことだろ?」

 テンと会うにあたって、俺は事前にテンの会社のホームページを確認していた。そこに載っていた社訓を見て、テンも同じ思いを持っていると仲間意識を抱いたのだが――、

「都合がいいからだよ」

 テンは冷たく言い捨てる。

「先生が教えてくれた言葉は、人をやる気にさせる内容だった。あの人の言葉を使えば、成長意欲が高い人間がやって来る。つまり、有能な人間が集まって来るということだ。人を動かすには都合のいい言葉だから利用しているだけだ。もし他に都合の良い言葉を哲学書や実用書で見つけることが出来れば、そっちを利用する」


 テンとはずっと一緒に過ごして来たから、俺はテンのことを何でも知っているようになっていたし、親友だとも思っていた。

 だけど、今目の前にいるテンは、俺が知っているテンとは違っていた。

 こんな風に、平気で想い出を踏みにじり、平気で人を利用しようとするなんて、昔からは考えられなかった。

「……なぁ、テン」

「いつまでもガキじゃないんだからさ、俺をそんな風に呼ぶなよ」

 テン、いや、十吾は溜め息交じりに言う。

「やはり情に駆られるのはダメだな。伊知郎、お前のおかげで貴重な時間を無駄にした。もしもこれから俺と言葉を交わしたいなら、ちゃんと然るべき手順でアポイントを取ってから来るんだな」

 そう言い捨てると、十吾はパソコンを起動させ、そのまま操作を始めた。どうやら十吾にとって俺は話す価値すらもないようだ。

 流石の俺でも、これ以上留まることが得策ではないことは分かる。

 俺はそのまま社長室を退出することにした。

 かつて親友だった人間がいたビルを後にすると、俺は十吾から受け取った名刺を眺めた。そこには「株式会社クリエート 代表取締役社長 川下十吾」と書かれている。

 隣同士で一緒に過ごしていたはずなのに、俺と十吾の距離はいつの間にか離れていた。

 長らく同じ時間を過ごした友人なら、共感してくれると思ったのに、全て思い違いだった。

 この感情を共有出来る身内は、誰もいない。そう思うと、喪失に近い孤独感は更に募っていく。

 本来なら、悔しさや虚しさと言った感情をバネにして、もっと精進するべきなのだろうと思う。だけど、どれだけ頑張っても、俺は十吾のようになることは出来ない。そう思ってしまうと、どうしたってモチベーションを高めることは難しい。

 これからどうしよう。どう日々を過ごしていけばいいのだろう。

 心に焦燥感を抱きながら歩いている内、気付けばセンセーの家に足が運んでいた。

 そこはもうもぬけの殻だって分かってるのに、俺は何でここまで来てるんだろう。

「え?」

 誰も使っていないはずの建物に、光が灯っていた。センセーが運営していた学習塾は、センセーが病気になって入院したと同時に閉めたはずだ。誰かがいるはずがない。

 そう驚き戸惑っていると、

「――チロ」

 二度と聞くことが出来ないと思っていたあだ名が、背後から俺の耳を刺激した。

 まさかセンセーが帰って来た?

 そう期待を籠めて、振り返る。そこには――。

――③へ続く

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この記事を書いた人

 東京生まれ 八王子育ち
 小説を書くのも読むのも大好きな、アラサー系男子。聖書を学ぶようになったキッカケも、「聖書ってなんかカッコいい」と思ったくらい単純で純粋です。いつまでも少年のような心を持ち続けたいと思っています。

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