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[小説]ロストワード③

ロストワード①

ロストワード②

 ***

「――チロ」

 センセーが運営していた学習塾にまで足を運ぶと、懐かしい呼び名で声を掛けられた。この場において、『チロ』と俺のことを呼んでくれるのは、限られた人間のみだ。

 俺は期待を籠めて、振り返る。振り返った先にいたのは――、

「やっぱりチロくんだ。久し振りだね」
「……あ、太助さん」

 センセーの息子さんである桐郷太助さんだった。

 センセーの元でバイトをしている時、いやセンセーの教え子時代から、顔を合わせる度に関心をもって話してくれた。センセーの息子さんらしく、子供に対しても気遣いが出来て、優しい大人という認識を持っていた。

「ずいぶん大人になったじゃないか。見違えたよ」

 まるで久し振りに会った親戚の子供に接するように、太助さんは俺のことを気遣ってくれた。

 けれど、気さくに話しかけてくれる太助さんに、どう言葉を返していいか分からずに「えっと、はい、その」と気の抜けた言葉を口にしてしまっていた。

 悩みの渦中で、上手く頭が回らなかったということも相まっている。

「ごめん。父だと思って、少しガッカリさせたかな」
「あ、いや、そういうんじゃないんです」

 微苦笑を浮かべる太助さんに、俺は思い切り手を横に振って否定する。

 太助さんと会えたのは、本当に久し振りだ。なのに、こうして気の抜けた振る舞いで接していては、失礼に値する。

 そう気持ちを切り替えると、

「えっと、太助さんはどうしてここに?」

 俺の記憶では、確か太助さんは会社員をしていたはずだ。まだ定年にはなっていないから、センセーの自宅兼学習塾にもなっていたこの建物の様子でも見に来たのだろうか。

「一年半くらい前から、父の跡を継いでいるんだ」
「センセーの、跡?」
「うん。勤めていた会社で、僕はそれなりの仕事を任せてもらっていた。だけどね、仕事をしていても、会社のためにしかなっていないことに気が付いたんだ」
「会社のためになっているんだから、良いんじゃないですか?」
「もちろん良いことだよ。僕の仕事を通じて、お客さんに喜んでもらえるし、会社も業績を上げて社員も喜ぶ。だけどね、そのことを頭で分かっていながら、喜ばせてあげられる人が限定的になっていることを感じてしまったんだ。……なんなら直接的に喜ぶ姿を見ることは難しくもあるくらいだ」
「あー、なんとなく分かります」

 太助さんの言葉に相槌を打ちながら、俺は自分のことを思っていた。

 俺自身、仕事に対してやりがいを失くしている。その理由は、人に対して真剣に向き合うことがなくなったからだ。

 それなりの仕事に対する姿勢を見せ、それなりの話を人と合わせていけば、問題なく人生を送ることが出来る。
 皆、真剣に仕事に熱を入れているわけではない。生活に困らない程度の給料を貰うために働いている。むしろ給料以上の仕事を振られることは、真っ平ごめんだ。
 その中で熱意をもって仕事をするのは、異分子扱いされてしまう。当事者だから、痛いほどに分かる。

 同調を求められる社会の中で、俺は無難な人間関係を築くことを選んだ。
 選んでからは、社会に上手く適応して、それなりに楽しく過ごすことが出来た。

 ――なのに、それがどこか虚しい。

「遅れながら、その事実に気が付いた僕は、意を決して会社を辞めることにした。それなりの立場があったところを辞めるのは、少しばかり心苦しかったよ」

 社会人になる前に太助さんと会った時、部長職を担っていると言っていたはずだ。部長以上の役職を持ちながら会社を離れるというのは、相当な決断を迫られたに違いない。

「後悔しなかったんですか?」
「うん、してないよ」

 太助さんは迷いなく言い切った。

「父がやっていた時のように、今は多くの子供に囲まれながら、日々を過ごしているんだ。そこで子供の成長を見守りながら、子供たちに寄り添えることがどれほど幸せなことなのか、身をもって感じている。間違ったことを教えられないという、教育者としての責任も伴なっているけれど、その分やりがいも感じている。今までで一番充実した生活を送れているんじゃないかな」

 学習塾を見つめる太助さんの目は、細く、優しかった。たったそれだけで、太助さんがセンセーの思いを継いで学習塾を運営していることが伝わった。

「自分でやってみて、父がやって来たことがどれだけすごかったのか分かった」

 センセーは魔法使いだった。

 分かり易い授業は大前提として、悩みを抱えている生徒の悩みを一瞬で解決したり、時には自分で解決できるようにさりげなくサポートしてくれていた。センセーと関われば、いつも笑顔でいることが出来た。
 まさしく魔法だと、少なくとも俺の目にはそう映っていた。

 だから、俺はセンセーのことが好きだった。

「ごめん、ずっと立たせっぱなしで長話に付き合わせちゃって」

 太助さんが肩に掛けていた荷物の位置を合わせ直す。

「またいつでも遊びに来てよ。今度はちゃんとお茶も出すからさ」

 目じりに皺を寄せて、太助さんは家の中に入ろうとした。太助さんの笑顔は、かつてのセンセーと同じものだった。 

 ――『■◆を▲●●■戦●行◆●なさ●』。

 ズキリと頭が痛んだと同時、途切れ途切れのセンセーの声が脳裏に過った。今まで何度も思い出そうとしたのに、一度も思い出せなかった記憶。この記憶を完全に甦らせるのに、必要なのは――。

「あの、太助さん」

 家の中へと帰ろうとするその背中を、俺は呼び止めていた。太助さんが振り返る。

「昔みたいに手伝ってもいいですか。会社員として仕事しちゃってるから、土日だけみたいな感じになっちゃうと思うんですけど」

 今まで考えることすらなかった発想が、自分の口から衝いて出た。けれど、案外この発想も悪いものではないと思える自分がいる。

 あの時と同じ環境に身を委ねれば、少しは何かが変わるのではないかと思った。

「――」

 太助さんがまじまじと俺のことを見ている。「あ、その、もちろんお金はいらないです」、一番大事なところも欠かさず事前に伝えておく。

「だから、その、迷惑じゃなかったならで良いんですけど……」
「いやいや、こっちとしては願ってもない話だ。正直すごく助かるよ。でも、チロくんは本当にそれでいいのかい?」
「はい! よろしくお願いします!」

 俺は思い切り頭を下げた。

「あはは、そんな畏まらないでよ」

 全てを受け止めてくれるような優しい太助さんの仕草や表情は、やはり親子だなと思わせるほどに、センセーそっくりだった。

――④へ続く

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この記事を書いた人

 東京生まれ 八王子育ち
 小説を書くのも読むのも大好きな、アラサー系男子。聖書を学ぶようになったキッカケも、「聖書ってなんかカッコいい」と思ったくらい単純で純粋です。いつまでも少年のような心を持ち続けたいと思っています。

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