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「チロ、さようなら」
「おう、またな。気を付けて帰るんだぞ」
「はーい」
土曜日の夕暮れ時、塾での勉強を終えて帰宅する子供たちを見送った俺は、椅子に腰をかけるなり息を吐いた。
「子供の意欲って、ほんとにすごいな」
センセーの跡を継いで塾を運営している太助さんの手伝いを始めて、早一か月が経過していた。
この一か月の間で、子供達との距離も縮めることが出来、『チロ』と呼んで慕ってくれるのが嬉しかった。
平日は仕事、休日は塾の手伝い。ダブルワークは正直体に来るものはあるけれど、充実感は正直今の方が大きい。
「お疲れ様、チロくん」
太助さんがそっとお茶を目の前に置いてくれた。
「先生って呼ばれなくていいのかい?」
「俺はまだまだ教えられるような人間じゃないです。むしろ、俺の方が学ばせて貰ってる立場なんで」
知的好奇心を満たして上げるために何が必要なのか考える。しかも、ただ同じことを画一的に行なっても、響く子も響かない子もいるから、ちゃんと個性に合わせて考えなければならない。
これが、存外に難しい。日常の中で隙間時間が生じた時は、子供達に役立ちそうなものを自然と目や心で追ってしまっている。だからこそ、余計なことを考える時間も少なくなって、ただ子供のために時間を投資出来た。
子供達が理解して喜んでくれて、努力が実を結んだ時には、純粋に嬉しくなった。頑張って良かったと、心から思える。
「センセーのすごさが分かります」
ただの教え子として教わっていた時は、何も分からなかった。バイトをしていた時に、ようやくセンセーのすごさを感じるようになった。けれど、センセーとの距離が近すぎて、その価値までは分かっていなかった。
一度センセーと離れて社会で経験を積んだ上で、センセーと同じ立場になったからこそ、センセーの人徳の高さを痛感せざるを得なかった。
「もちろん太助さんも」
そして、そのセンセーが行なっていたことを、限りなく再現している太助さんにも脱帽してしまう。やはりセンセーと太助さんは親子なのだと実感させられる。
「なんか、こうしているとあの頃に戻ったみたいです」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
言葉通り、太助さんの表情は目に見えるほどハッキリと綻んでいる。
「僕も父の背中を目指して頑張っているところはあるけどね。子供達を真っ直ぐに成長させたい、というところでは、父の目的も僕の目的も根本は同じだから」
「……もく、てき」
太助さんの言葉が、どこか頭の片隅に引っかかった。
『――目的を定めて挑戦し行動しなさい』
いや、それどころかピタリと当てはまる。虫に食われていた言葉が、今完全に甦った。
開いた口が塞がらない、とはこのことか。俺は右手で口元を覆い、思考に更けていく。
「チロくん?」
「……なんで、忘れてたんだろ」
そうなった理由を、俺は分かっていた。
この塾でセンセーが掲げている教訓は、『生涯学び続けること』。
学習塾らしい教訓だけれど、言うは易く行うは難し、という言葉があるように学び続けることは容易いことではない。
特に社会人になると、日々の仕事に追われて、自己研鑽をする時間はなくなる。家に帰ったら、体力が底を尽きて気付けば眠っているなんてことすらザラだ。
社会人一年目の時は、センセーの言葉を心に抱き続けて、誰よりも充実した社会人になってやると思っていた。社会人としてこうありたい、という目的を定めて、そのために必死に生きた。けれど、そんなことは現実を知らない若造が描く夢物語だと知った。
多くの社会人は、適当に生きることを選んでいる。そこまで必死に生きることを求めていない。
抱いていた目的は打ち砕かれ、次なる目的も見出せない。
だから、俺は楽になる方を選んだ。
家に帰ったら、受動的に楽しめる動画だけを垂れ流していた。そのうち、センセーの言葉も忘れるようになっていた。
だけど、心のどこかではこのままじゃ行けないって思い続けていて――、そういう自己矛盾が一番嫌だった。
「太助さん、俺……」
今思い至ったことを、太助さんに伝えようと顔を上げる。視線が合った太助さんは、俺のことを全て受け入れてくれるような懐の大きさを感じられた。だからこそ、迷いなく思いを伝えることが出来る。
「会社で仕事をしている時、俺には何の目的もなかったんです。いや、目的の抱き方すらも分からなくなっていました。それが俺を虚しくさせていたんですね」
「目的は生きる上で大事だよね。目的があってこそ、ハッキリと迷わずに歩むことが出来る」
照準を定めていない銃から放たれる弾は、何にも当たることが出来ない――、小学校の頃にセンセーと夏祭りで射的をした時、ふと言われた言葉を思い出す。
センセーは遊んでいる時でさえ、人生を歩む上で大切なことをさらりと伝えてくれる。子供相手だとしても、センセーは対等に接してくれ、出し惜しむようなことはしなかった。
センセーと接して来たあの時間で、どれだけセンセーは教えてくれたのだろう。今なら……、いや今だからこそ、センセーの言葉の価値が分かる。
いくら頑張ったところで、何も照準を定めていなかった俺は、弾というエネルギーを無駄に消耗させていくだけだった。
「チロくんは、これからどうしたいんだい?」
「……俺、は」
この一か月と、それ以前のことを思う。
ただ惰性で生きて来た日々と、子供の役に立つために模索した日々。
答えは明白だった。
俺が本当にやりたかったことは、なんとなく仕事をして、ただ給料を貰うだけの生活じゃない。
誰かの力になれるような人間になりたい。それこそ、俺がずっと大好きで尊敬していたセンセーのように、さりげなく寄り添って支えられるような人間に。
「続けて、太助さんの手伝いをしたいです。そして、ゆくゆくは俺も子供たちに勉強以外も教えられるような先生になりたい」
俺の目的は定まった。
目的を実現するために、どれだけの過程を経なければならないのか分からない。先を考えれば、不安に苛まれることもあるだろう。
「父も喜ぶよ。今度チロくんの口から直接、父に伝えてほしいな」
昔から憧れ続けたセンセーのように、太助さんは背中を押してくれる。
支えてくれる人がいるから、もう迷わない。
センセーから教えてもらったことを胸に秘めながら、俺は前に進み続ける。
<――終わり>
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