・月と鼈①
***
「円谷瑠々奈です、宜しくお願いいたします」
ジメジメとした梅雨入りの日に私たちのクラスに転入生としてやって来た瑠々奈は、鬱屈とした空気を吹き飛ばすほどのキラキラとした空気を纏っていた。
人の心を絆す表情、凛とした姿勢、透き通った声、鞄を持つ手、皺ひとつない制服――瑠々奈を構成する一つ一つが、私たちとは別世界に住む人間に思えた。
この教室にいる誰もが瑠々奈を前にして息を呑んでしまっていた。担任の新條佳子先生が拍手をしたことによって、固まっていたクラスの空気が動き出す。瑠々奈を迎え入れるように拍手を送ると、瑠々奈はその拍手に応じるように恭しく頭を下げた。些細な所作一つでも、私たちでは到達できないほど洗練されている。
「そしたら、円谷さんの席はあそこの空いている席で……あ、隣は来萌か。なら丁度いいな」
新條先生が私の隣の空席を指さすと、瑠々奈は「はい」と微笑を携えながら、教室を歩き始めた。凛として歩く瑠々奈に、クラスメイトはうっとりと釘付けされている。
私の隣の席まで来て、みんながうっとりとした表情を浮かべている理由が分かった。香水をつけているのか、瑠々奈が隣にいるだけで爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
「宜しくお願いいたします、えっと」
ここまで表情を崩さなかった瑠々奈が初めて言い淀んだ。名前も分からない初対面の人間に対しては当然の反応だろう。
「多丸来萌、よろしく」
挨拶がてら簡単に自己紹介をすると、瑠々奈は安心したように破願して恭しく頭を下げると、音もたてずに椅子を引いて席に着いた。
「来萌、あとで円谷さんに学校のこと説明してあげてね」
「はい」
私が返事をしたことでホームルームも終わり、そのまま新條先生による現代文の授業が始まった。
そして、瞬く間に放課後になって、私は瑠々奈に校内を案内することにした。
瑠々奈と並んで廊下を歩くと、否が応でも自分と瑠々奈との差を思い知らされる。本物のお嬢様と一般人である私、まるで月と鼈のように思えて、少しだけ自己嫌悪に陥りそうだ。
「ありがとうございます、多丸さん」
そんな私の心境を知らずに、瑠々奈は歩きながらお礼を言った。「この学校のことをもっと知れると思うと本当に楽しみです」、今にもスキップをしそうなほど瑠々奈の声は上擦っていた。
ここまで素直に喜んでもらえると思っていなかった私は、単純にも顔を赤らめてしまった。赤面してしまったということ自体が更に恥ずかしさを助長させ、私は照れ隠しをするように、
「あー、私のことは来萌で良いよ。苗字で呼ばれること、慣れてないんだ」
「あら、そうですの。そうしましたら、私のこともぜひ下の名前で呼んでください」
「瑠々奈?」
「はい、来萌さん」
純真という言葉を、まさに瑠々奈が体現していると思った。
お嬢様相手に私がどこまで話せるのか不安になっていたけれど、思いの外、瑠々奈との話は盛り上がった。二人で並んで歩く廊下は、どこか心地よかった。私とは住む世界が違う瑠々奈だけど、分かり合うことが出来るのだ。
そう思っていたのに。
「ふー、ここらで休憩しようか。瑠々奈、何飲みたい? 私、奢るよ」
「いいんですか?」
青天の霹靂に直面したかのように大きく口を開けた瑠々奈は、すぐに丁寧な所作で口元を隠す。
「あははっ、いいに決まってるんだろ。ジュース奢るくらいのバイト代は稼いでるんだ」
「あ、いえ、そっちではなくて……就学時間内に買い物をするということです」
「は?」
瑠々奈の言葉に、今度はこちらが口をあんぐりと開けてしまう。
「私が通っていた学園では、学校の中にいる時間や登下校の最中も、何かを買うという行為は禁止されていました。もしこんな場面を誰かに見られてしまったら……」
「瑠々奈の高校がどれだけお嬢様校だったかは分からないけれど、うちの高校は緩いからいいんだよ。ってか、他の学校も大体こんなもんさ」
私は正論を言ったはずなのに、「……はぁ」とどこか納得しきれていない相槌を瑠々奈は打つ。
なんとなく嫌な予感がした私は、「とりあえずお茶でいいよね?」と自販機に硬貨を投入しようとした。
しかし、硬貨を入れる寸前、柔らかく温かな手に私の手首は掴まれた。
「あ、それに来萌さん、バイトをされていると言いましたか? 確かこちらの高校でのバイトは原則禁止でしたよね?」
真剣な声音で言う瑠々奈の瞳もまた、真剣そのものだった。正直なところ、一瞬頬が引き攣ってしまう。
「な、なんでそれを?」
私の疑問に瑠々奈は空いている方の手を使って器用に鞄を漁ると、「こちらに記載されていました」とこの高校で過ごす生徒のほとんどが一読もしたことのない生徒手帳を取り出した。転入したばかり、という要因を除いても、瑠々奈の生徒手帳はキラキラと輝いていた。
「せっかくこちらの高校で学ばせていただくのですから、相応しい生徒でいられるように、先日読み込んだのです」
当たり前のように言う瑠々奈の姿を見て、私は悟ってしまった。
ルールを守って清く正しく生きることは、瑠々奈が住んでいる世界では当然のことだ。お嬢様然とした瑠々奈の言動の節々から感じていたから、まだそれはいい。それだけならまだしも、瑠々奈は自分の世界を他人にも強いてしまう性格だったのだ。
「わ、私は特別なんだよ。ちゃんと先生に申請してるし」
「あら、そうだったんですね。確かに生徒手帳にも『特別な事情がある時は、例外も認める』と書いてありました」
瑠々奈はようやく納得したのか私の手首を離してくれた。瑠々奈に気付かれないように、音を殺して大きく息を吐く。
「ごめん、そういえば私、クラス委員長の雑務がまだ残ってたんだ。すぐ教室に戻らないとなんだけど、瑠々奈はどうする?」
お茶を奢るという気力はなくなってしまった私は、一刻も早く自販機の前から逃げたかった。ちなみに、雑務という話は全くの嘘だ。
「そうですね、私も教室に戻ってから帰宅しようと思います。今日の復習もしたいですし」
私の嘘に気付くことなく、瑠々奈は素直に言葉を受け入れてくれる。
「お忙しい中、案内していたただいてありがとうございました」
「あー、うん。また分からないことがあったら何でも聞いてよ」
「はい。本当にありがとうございます、来萌さん」
ハキハキとした声と共に、瑠々奈はまた恭しく腰を折った。私が裏で抱いている感情にまるで気付いていないようだ。
私は軽く手を振って、教室へと戻った。
背筋を正した瑠々奈は、左手を胸元へと添えていた。
<――③へ続く>
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