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全国への切符を手にすることが出来る大会まで、残り一か月を切っていた。ここから追い込んで、大会までにベストコンディションになるように調整をしていく。
今の俺は調子がよかった。
去年の大会で二秒の壁に阻まれてから、毎日毎日走り込んで来た。おかげで、五千メートルを全力を尽くしても連続で走る体力を手に入れることが出来たし、標準記録を優に超える走力も身に着けた。
今年こそは、と準備して来たおかげで、全国大会出場も夢ではないところまで近付いて来た。
あとは、トラブルがないように本番を迎えて、実力を発揮するだけだ。
――なのに。
「ここで怪我かぁ」
右肩から右肘にかけてグルグルに巻かれた包帯を見て、俺は小さく溜め息を吐いた。
予選一か月前なのに俺は怪我をしてしまった。怪我をした理由も、授業中のサッカーが原因だ。パスを受け取った直後、相手が突っ込んで来ることに気付かず、そのまま激突。受け身に失敗して、利き腕を思い切り打ち付けたかと思いきや、全治二か月の骨折という診断を受けた。
「あれだけ勢い込んで準備して来たのに、挑戦権すらもないってか」
昔から何をしても上手くいかない性質だった。
中学一年では成長痛に苛まれ予選敗退、中学二年はギリギリのところでタイムが届かず予選敗退、中学三年では不注意による怪我によって予選すら出られない。
昔から走ることが好きだった。小学校内のマラソン大会では優勝することが出来たし、走ることに対しては誰にも負けない自信があった。だからこそ、俺は全国大会に出て、自分の走力に自信を持ちたかった。
けれど、ここまで立て続けに失敗してしまうと、ただ走ることが好きなだけで、そもそも俺には走る実力は備わっていないのではないかと思ってしまう。
グラウンドの端にあるベンチに腰を掛けている俺は、新入部員も入って来て盛り上がりを見せる放課後の部活を眺めた。
みんな輝いているように、俺の目に映った。
多分彼らはこれから先も部活動に励み、実力を身に着け、華々しい功績を上げていく。まさしく永遠に消えることのない煌めく青春の一ページとして、記憶に鮮明に刻まれるのだ。
一方、
「俺のアルバムはどんよりと曇ってるんだよなぁ」
しかも、どれだけ消したいと願っても消えないという悪い性質をしている。
目を背けたい現実とこれ以上向き合わないように、俺はベンチの背もたれに全体重を預け、空を仰ぎ見ようとした。
「なんでここにいるわけ?」
なのに、俺の目が捉えたのは、スポーツウェアを着た莉久だった。下から見上げると、莉久の威圧感は想像以上だ。
「それは俺の台詞です。何やってるんですか、イッキ先輩」
下から見上げていることも相まって、一つ一つの莉久の言動に棘が感じられる。そんな莉久を前にしていると、自分がちっぽけな存在に感じられてしまう。あまりにも小さい自分を隠すように、
「見れば分かるだろ。部活出てもやることないんだ、ははっ」
「笑うとこなんて一つもないっすよ」
しかし、俺の浅ましい考えなんて見抜いているように莉久は一蹴する。
莉久は俺よりも一つ年下なのに、俺よりも遥かにしっかりしている。
「一緒に全国に行こうって約束したじゃないですか」
いや、しっかりしているというよりも、自分の意志を曲げずに他人にも強要すると表現したほうが正しいかもしれない。
自分に出来ることは他の人も出来るのだ、と莉久は無意識に思い込んでいる。
「そもそも俺と莉久には実力差があるんだ。怪我なんてしてなくても、俺だけ全国に進むことは出来なかったよ。どうせ、ね」
「なんなんすか、それ」
莉久が俺の前に立つ。莉久は真っ直ぐに俺のことを見つめているのに、莉久の顔を真正面に見ることは出来なかった。
「本気出したら、イッキ先輩は俺よりも速いでしょ」
俺はベンチから立ち上がった。莉久の首元へと伸ばそうとした右手は、包帯でガチガチに固められていて動かすことは出来ない。確かに湧き上がった溜飲は、自然と静まり返っていく。
「莉久」
俺が名前を呼んでも、莉久の視線はぶれない。何を言われても、自分の意見は曲げないという頑なな意思表示だ。
「お前は怪我なんてせずに全国に行けよ。全国に進んだら、現地に行って応援くらいはするからさ」
そう捨て台詞を吐くと、俺は莉久の隣を横切って帰路に着くことにした。
「応援なんて要らねーっすよ! 俺は一緒に走りたいんだ!」
背中に向かって莉久が叫んだが、俺は足を止めなかった。
この日から、俺は陸上競技部に顔を出すことはおろかグラウンドに長居することもしなくなった。
中学生活最後の記録会まで残り一か月。
だけどもう、俺には関係のない話だ。
<――④へ続く>
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