・月と鼈①
・月と鼈②
・月と鼈③
・月と鼈④
***
「ねぇ、瑠々奈。帰らないの?」
終業式が終わった教室で、ただ独り姿勢を正しながら座っている瑠々奈に私は声を掛けた。黒板の方を見ていた瑠々奈は、私に目を向けて、いつものように恭しく口角を上げる。
「この学校に通えて良かったなー、って振り返っていました。そう言う来萌さんは帰宅されないんですか?」
「私はクラス委員長の雑務。夏休み直前だっていうのに、最後の最後まで人遣いが荒くて困るよ」
「来萌さんが頼られている証拠ですよ」
わざとらしく肩を竦めた私に、瑠々奈が間髪入れずにフォローを入れてくれた。
こうして瑠々奈と二人きりで同じ空間を過ごすのは、転入初日に学校案内をして以来だった。私が瑠々奈に抱いた印象は、生真面目で世間知らずなお嬢様。私の性格に合わないと早々に高を括り、瑠々奈と交流することを避けた。
その結果、一か月ほど隣の席に座って過ごしていたのに、私は瑠々奈について何も知らない。
今まではそれで良いと思い、そう割り切っていた。瑠々奈と関わらない方が、心の安寧に繋がると思っていた。
けれど、実際は知らないことによって、より瑠々奈に対しての感情を膨れ上がらせただけだった。
このままではいけないとカリン先輩に教えてもらったから――、
「あのさ。そんな生き方して疲れない?」
瑠々奈の世界に一歩踏み出すことにした。瑠々奈は一瞬顔を硬直させたが、すぐにいつもの表情へと切り替えた。
「……そんな生き方、とは?」
「自分の感情を押し殺して、無理して生きること」
先日カリン先輩と遊んだ日の帰り道、私は街中で瑠々奈のことを見かけた。
その時の瑠々奈は人々の往来に紛れるように佇んで、ティッシュ配りをしていた。最初は何をしているのだろうと思ったけど、すぐにバイトをしていることが分かった。
ティッシュ配りというのは、ほとんどの時間が歩行人から無視される時間だ。瑠々奈みたいな生粋のお嬢様には、仕事だろう。瑠々奈は無視される度に、胸の当たりをキュッと掴むような行為をしていた。
その一方で、差し出したティッシュが受け取られた時、瑠々奈は大袈裟なほどに喜び頭を下げた。ティッシュを受け取った通行人が驚くほどだった。そして、通行人が背中を向けて去っていくと、瑠々奈はまたしても胸元をキュッと握るような仕草を見せた。
瑠々奈がティッシュ配りする姿を、私はニ十分ほど見つめていた。
当然だけど、瑠々奈も感情を持った人間だ。嬉しいことがあれば喜ぶし、辛いことがあったら悲しむ。
しかし、教室にいる瑠々奈はお嬢様らしく完璧な姿を見せている。いや、完璧な姿しか見せていない。
「瑠々奈さ、この一か月で何人と話すことが出来た? 瑠々奈が明確な理由を持って、人と壁を作っているのなら、私は何も言わないよ」
瑠々奈には瑠々奈の事情があるのだろうと誰もが思ってしまった結果、みんな瑠々奈の世界に踏み込むことをやめた。
しかし、それがより一層瑠々奈の世界を孤立させ、繋がる術を絶たせてしまったのかもしれない。
瑠々奈がバイトをしていることを誰も知らないし、唯一知っている私もどのような事情があってバイトをしているかまでは知らない。
「でもさ、もしそうじゃなくて、自分を吐露する方法が分からないだけなら――」
「優しいですね、来萌さん」
ここに来て瑠々奈が私の言葉を遮った。転入して来てから今まで見たことがないほどに弱々しい雰囲気を纏っている。
「お察ししているかと思いますが、私は裕福な家庭に住んでいました」
まるで自首するかのように、瑠々奈は言葉を紡ぎ始める。
「弱きを助けなさい、人前で涙を見せないようにしなさい、いつも人から尊敬されるような人でありなさい――祖父の教えによって、私の家庭ではそのように生活することを推奨していました。周りの友人たちも似たような家訓で育っていたため、清く正しく生きることに抵抗はありませんでした。周りが当たり前のように生きるように、私にとっても当たり前のことだったからです。……ですが、私が真面目に生きようと思ったのは、家の教えがあったからではありません。真っ当に生きる祖父の姿に感銘を受けたからです」
「瑠々奈のおじいちゃん……?」
いつの間にか胸から出していた首飾りを愛おしく見つめながら、「はい」と瑠々奈は首肯した。
「私の祖父は、会社を興し一代で名を馳せるまで会社を成長させました。忙しく仕事をされていましたが、仕事をしている最中はもちろん家に帰ってからも、誰に対して平等で優しい振る舞いしかしていませんでした。優しく、それでいて厳かに人々に接する私の祖父は、周囲から尊敬されていました。幼いながらに、家訓を守ることは大変だと思っていましたが、家訓を守ればおじいちゃんに近付ける――、そう思ったら、私は家訓を守って、おじいちゃんに近付きたいと強く思えるようになったの」
慈愛の目を籠めて首飾りを見つめる瞳から、瑠々奈がおじいちゃんのことを尊敬していることが伝わって来る。
「……おじいちゃんのこと、好きなんだね」
「はい。好きです。好きでした」
過去形であることに、私は疑問符を抱いた。
「……おじいちゃんは一年程前に亡くなってしまったんです」
私の疑問を敏感に感じ取ったのか、瑠々奈は説明を加えてくれる。
「おじいちゃんが亡くなってからは、おじいちゃんが経営していた会社はおじいちゃんの秘書をされていた方が継ぐようになりました。私の父は、まだ自分には会社を経営する力はないと後を退いたんです。それから私たちの家の情勢は傾きました。元秘書の方が権力を用いるようになって、おじいちゃんの時とは違った経営方針で会社が運用するようになったのです。父は文句を言うことはなかったですが、今までのような暮らしは出来ないと節制した暮らしをするようになりました。その一環で、私も転校することになったんです」
初めて知った瑠々奈の事情。あまりにも重い事情に、私は容易に口を挟むことが出来なかった。
瑠々奈は更に言葉を紡ぐ。
「私はどんな環境になったとしても、おじいちゃんの教えてくれた家訓を守ろうと心に誓いました。そうしてこそ、私もおじいちゃんに近付くことが出来ると思っているからです。不思議と、おじいちゃんの教えを行なっている時は、おじいちゃんが隣で教えてくれるような感覚になるんです」
しかし、「でも、ね」と、次第にその瞳が潤い始めた。
「でも、わたしは、るるは分からない、の」
一粒一粒涙が溢れて来ると同時、瑠々奈の中で堰き止めていた感情も瓦解していく。
「どれだけおじいちゃんみたいになろうと行動しても、全然うまくいかないの。おじいちゃんみたいになりたくても、るるはなれないって思い知らされるだけ。なら、がんばるしかないじゃん。でも、どれだけがんばっても、余計におじいちゃんとの差を思い知るだけ。むしろ、るるが信じていた世界は、どんどんと苦しい状況になってく……。るるはどうしたらいいの? るるのやり方は間違ってたの? るるは……」
瑠々奈は顔を両手で覆いながら涙を流した。
「……」
瑠々奈の今までの行動が、ようやく腑に落ちた。
誰が見ても真面目だと表現するしかない行動は、瑠々奈にとって亡くなったおじいちゃんと自身を繋ぐ行為だったのだ。だから、瑠々奈はおじいちゃんから離れないようにと家訓を守って来たけれど、周りの状況は更に瑠々奈を追い詰めた。
子供のように泣きじゃくる瑠々奈に、今の私が出来ることは――、
「瑠々奈は瑠々奈のままでいいでしょ」
ゆっくりと手を下ろした瑠々奈と視線が重なった。充血した瞳はあまりにも真っ直ぐで、「まぁ真面目過ぎて、正直取っ掛かりにくいところもあるけどさ」と照れ隠しをするように言葉を紡ぐ。
けれど、ちゃんと伝えなければいけないことは真剣に伝える。
「普通だったら楽な方へ流れていくのに、瑠々奈はずっとおじいちゃんの教えを守るために、真面目に生きて来た。何者にも染まらずに自分の世界を生きる瑠々奈を見て、私には絶対できないと思って……、うん、尊敬した。瑠々奈の生き方は誰にでも出来ることじゃない」
私とは違う世界を生きる瑠々奈を、私は拒絶した。だけど、本心では憧れていた。
流されずに自分を貫けるほどの強い意志を持っていないのだと瑠々奈を見ていると突きつけられてしまうことが、嫌だった。
私はどうしようもなく無個性な人間だ。
「瑠々奈のやり方は間違ってない。今は大変かもしれないけど、この状況を乗り越えれば、絶対に瑠々奈は幸せになれる。だから、少し上手くいかないからといって、今までの自分を否定したらダメだ」
「……くも、さん」
瑠々奈の涙腺は更に瓦解してしまった。
子供みたいに泣きじゃくる瑠々奈を見て、私の中に珍しい感情が芽生える。
私と瑠々奈は住む世界が違う――、その考えは今も変わっていない。
けれど、瑠々奈ともっと近くなってみたいという感情が、純粋に私の胸の内から湧き上がって来た。
全身の力を抜くようにふっと息を吐くと、
「これから夏が来るね。ねぇ、瑠々奈。海って知ってる?」
脈絡もない私の質問に、瑠々奈は思い切り鼻を啜った。
「……もちろん知ってます。海というのは地球の七割ほどを覆い尽くしているもので、生命にとってかけがえのない――」
「違う違う、そうじゃない」
瑠々奈らしい回答に、私は即座にストップを掛ける。瑠々奈はキョトンとした顔を浮かべて首を傾げている。思わず私は笑みを零してしまった。やはり円谷瑠々奈という人間は面白い。
私と瑠々奈は違う世界を生きている。いや、瑠々奈だけではなくて、誰もが違う世界を持ちながらも同じ地球で呼吸を共にしている。
分からないからといって歩み寄るのをやめるのではなく、私は少しでもその人のことを知って、その人の世界ごと少しだけ好きになってみたい。
だから――、
「夏休みになったら一緒に海に行こうよ」
<――終わり>
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