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奈地壱作は、人付き合いが苦手だ。というよりも、興味がないと表現した方が正しい。
興味がない人のことは名前と顔が関連しない。他人で脳を占めるよりも、まだ見ぬ新しい作品に全てを投資した方が、壱作には有意義だ。
壱作は幼い時から自分が異質であると自覚していた。
極端な壱作は、自分の性格を曲げることはせず心の赴くままに生きたことで、多くの作品をつくりあげて来た。付随するように、富と名声も手に入れることが出来たが、壱作にとってはあくまでもオマケだった。
半世紀もの期間を創作に当てて来た奈地壱作だからこそ、難波幸音という人間はあまりにもイレギュラーな人間な存在に感じられた。
幸音の提案を半ば渋々と受け入れたところ、幸音はまるで自分の家のように壱作の家で過ごすようになった。使用人のように壱作の身の回りの世話をし、時には旧知の仲のように壱作に接した。
幸音の距離感は、これまで人との距離を絶っていた壱作にとって新鮮だった。
「壱作さん。今日は何するんですか?」
幸音が壱作の近くにいれるようになった次の日も、幸音は壱作の家に訪れるや不躾な問を投げかけた。まさか二日続けて来るとは思わなかった壱作は、どう返事しようか言葉に窮してしまった。そんな壱作の心情に気付かずに、「創作?」、と矢継ぎ早に聞いて来た。
「……あぁ、そうだ。だから、今日は帰――」
「見ていっすか?」
壱作にとって創作というものは、自身と向き合う時間であり、自身をありのままに曝け出す時間だ。当然誰かに見せびらかすものでもない。
拒否しようとするも、幸音は返事を待つことなく、工房へと足を向けた。「ちょ、おい」と制止する声を掛けるとも、幸音は止まらない。先日の一件で幸音の性格を何となく察した壱作は、こうなることを少しだけ予想していた。
工房に入るや、幸音が息を呑んだことが分かった。人は真に感動した時は、言葉を失うものだ。自身の作品が人を感動させる瞬間に久し振りに直面したのだが、こういう時にどう反応すれば良いか分からない壱作は、何も言うことなくいつもの席に座った。
「やっぱ壱作さんって凄いな」
呼吸を取り戻したと同時、幸音は率直な感想を漏らした。
「特にこれ」
幸音が指さしたのは、ここ最近の壱作の作品の中でも神経を注いで作ったものだった。星の数ほどある作品の中で、自信作が選ばれたのは嬉しかった。だからこそ、「お前、小娘のくせに作品の価値が分かるのか?」、つい真逆の言葉が口をついてしまった。幸音は頬を膨らませた。
「小娘だからって馬鹿にしないでください。これでも感受性豊かで、美術の成績も五段階評価で五だったんすよ」
「俺の作品を高校程度の授業で図ろうとするな」
「ちょ、私の高校って、ここらへんでは美術やクリエイティブに力を入れていることで有名なんですよ? その中で五を取れるのって、相当すごいんですから。私がつくったものを見たら、絶対に壱作さんも腰を抜かして、そんなこと言えなくなるんですからね。たとえば――」
「人の作品に興味などない」
スマホを操作していた幸音を遮って、壱作は自身の創作に注力した。一度壱作が創作に集中したら、並大抵のことでは邪魔することは叶わない。だから、「ちぇっ、絶対にいつか認めさせてやるんだから」と口を尖らせた幸音の姿を、壱作は目にすることがなかった。
そして、寝食という概念が頭から消えるほどに時を忘れて創作を完成させた時、全く変わらない姿勢で幸音がいたことに、壱作は心の底から驚いてしまった。
「おまえ……、退屈じゃなかったか?」
「いえ、全然」
純度百パーセントで作られた声音で、幸音は言った。壱作は複雑な心境に駆られてしまった。
「また見ていいですか?」
「……好きにしろ」
「へへっ、やった。好きにします」
何がそんなに嬉しく楽しいのか、幸音は無邪気な笑みを浮かべた。
そして、この日以降、幸音の我を貫くような行動は拍車を掛けた。
「壱作さん、これ捨てますよ。絶対いらんすよ」
「構わん」
「壱作さん、メシ食いましょ。今日、これ出前していっすか?」
「好きに選べ」
「壱作さん、今日も見ていいすか?」
「邪魔だけはするなよ」
「壱作さん、壱作さん」
時には壱作を甲斐甲斐しく世話する使用人のように、時には壱作を尊敬する弟子のように、時には壱作を慕う子供のように、幸音はことごとく壱作の近くにいた。
正直なところ、奈地壱作にとって難波幸音は煩わしい小娘だ。社会をろくに経験していなく、年上に対する敬いもない。そもそも年齢だって二倍近く離れているのだ。
けれど、半年ほど経つ内に、いつの間にか壱作は幸音が慕ってくれることを当たり前のようになっていた。
今まで人間を毛嫌いしていたのに、たった一人の小娘によって覆されるとは不思議なものだ。
だけど、今や幸音は壱作の近くにはいない。幸音が綺麗に保っていた家の中も、まるで幸音が来る以前のように荒れて散らかっている。
工房の現状を確かめ、幸音を安否を探るために、壱作は扉を開けた。
「……」
戸を開けた先に広がっていた光景を見て、壱作の胸は幾ばくか掻き乱された。
やはりと言うべきか、工房も荒らされていた。壱作がつくった作品は、ごちゃごちゃになって、よく分からない惨事になっている。
「……何がなくなっているんだ?」
――そう、よく分からないのだ。つくった本人であるにも関わらず。
奈地壱作という人間は、興味のないことはすぐに忘れる。他人に対してもそうだし、自分がつくった作品についてもそうだった。
他人の思考の常軌を逸した作品を、壱作は制作している。だから、多くの人の好奇の目を買い、人気を博している。自身の脳裏でしか見たことのないものを、この世界に生み落とせる瞬間が、壱作にとって何よりも甲斐を感じる時間だ。そして、少しの甲斐を感じるや、壱作は次の作品の構想を考え始める。
壱作が興味のあることは、見たことのないものを生み出すこと。
既存に囚われない作品を作り続けていることの代償と表すべきか、自分がつくった作品に対して固執することはほとんどなかった。
パッと見で確認しただけではあるが、過去につくった自信作もなくなっているような気もした。壱作の感覚は実際正しくて、その自信作は世に出回れば相当な額で取引されるような代物だ。
「いや、待てよ……」
ひとつだけ確認しなければいけない作品があった。
壱作は棚の方に目を向けた。ここ最近の壱作の作品の中で一番の自信があるものが、そこにはなかった。
ここにきて、壱作の脳裏にある一つの予感が浮かび、一つの確信へと繋がった。
ここまで来れば、もう疑いようもない。
「俺は、裏切られたのか」
呟いた声音には、自身への嘲笑も混ざっていた。
初めて会ってから半年もの月日が流れ、幸音という存在はだんだんと緩やかに壱作の中で立ち位置を変えつつあった。幾ばくかの信頼は芽生え始めていて、作業の邪魔さえしなければ何をしてもいいとさえ思うようになっていた。
しかし、壱作が居ぬ間に幸音は家を荒し、工房を荒し、作品を盗んだ。
まだまだ世間を知らない小娘だから何も出来ないだろう、と高をくくっていたのは事実としてある。
だけど、その振る舞いもすべて、壱作を油断させる幸音の罠だったのだ。
「……ああ」
こうして胸にわだかまる不満を発散できる相手はいない。否、出来かけたけれど、いなくなった。
そうしていると、否が応でも痛感させられる。
奈地壱作は、これまでの人生の間、多くの作品を生み出して来た。
けれど、自分自身の人生を振り返った時、自身には残るものが何もないのだ――、と。
<――③へ続く>
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