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噂の家の地下、周りに音を漏らすことさえ許諾されない密室の中。ここで暮らす一人の人物――『一』という名前の青年は、一仕事を終えたようにふぅと息を吐いて、パソコンの画面をシャットダウンさせた。
ドッと押し寄せた倦怠感を全身に感じながら、ハジメは自分の部屋を見渡す。至る場所に散らばっている紙、菓子パンやオニギリのゴミ、ゴミ箱から溢れ出したゴミの山、到底人間が住むべきとは思えないほどの乱雑とした様子だった。
「あー、またやっちゃった……」
自分が生み出した惨状だと理解しつつ、ハジメは溜め息を吐いた。
一度やりたいと決めたことであれば、とことん没頭してしまう性格をハジメは有していた。常軌を逸するハジメの没頭する様は、自分の身の回りのことでさえ度外視してしまうほどで、周囲から疎まれていることはよくよく分かっていた。『一』という名前からも、名前にさえも気を取られるな、という両親のメッセージを受け取っていた。実際、その通りの人生を歩んでいる自覚があった。
ハジメの生き甲斐は、音楽を生み出すこと。
いつからだったかは明確ではないが、ハジメはふとした時に自分の頭の中で旋律が流れていることに気が付いた。しかも、その旋律はこの世の中で一度も聞いたことのない、美しさを伴なっていた。ハジメはその美しさを外側に解放したいと思った。
それが人生を賭してやるべきことだと、使命感に似た想いを抱いていた
。
しかし、ハジメは脳や手先が器用な方ではない。また、妥協も許さない一途な性格もしている。
それゆえ、一度手を付けると、更なる完璧を求めてしまう。もしかしたら、もっと至高の一音があるのではないかと、どこまでも自分の世界に入り込んでしまう。
この一曲も作り上げるのにだって、五年ほどの時間が経っている。
そして、その五年の月日の間――否、正確に表現するのであれば、高校を卒業して親の脛を齧るように、制作に集中できる防音室を与えてもらい、ここに籠るようになってからの二年もの間、ハジメはまともな寝食を取らずに没頭していた。
自分の中から限界まで搾り取った疲労感。
これ以上の傑作は生み出せないだろう、という達成感。
代償にして、身の回りのもの全てを犠牲にした生活。
一曲作ると、ハジメはだいたいこうなってしまう。
「……ははっ」
嘲笑するような渇いた笑いがハジメの口から洩れる。
人間として大切な何かを捨てた生活を送っている自覚はあった。もう少し控えた方がいい、ということも頭の中では何となく分かっている。
この荒れ狂った惨状の中を、何の感慨も持たずに当然と生活してしまっているのは、獣同然だ。
けれど。
「抜け出せるわけがないんだよな」
創作の世界に、ハジメは取り返しが付かないほどに虜になっている。
自分の中にしかなかった旋律が、ハッキリと音符という形になって世界を奮わせていく。その瞬間、ハジメは普通に生きていては体感出来ないほどの幸福を感じる。
もしも、心の中に響く旋律を表現できなかったらと考えると――、そう頭を過らせるだけでハジメは息が詰まって苦しくなる。
頭の中で奏でられる旋律を地上に現すことでしか、自己を満たす方法は知らなかった。
「でも、まだ足りない……」
これ以上ないほどの最高の調べを築き上げたけれど、どこかで不足を感じていた。
何が足りないのかは、ハジメ自身理解していた。
今ハジメが作り上げた楽曲をたとえるならば、種を植え、根が生え、葉も青々と生い茂っている状態だ。それだけでも、見る人は美しいと思う。
けれど、まだ花が咲いていない。花が咲いてこそ、一目瞭然の結果として人々の心を惹きつける。
自分の曲に花がないことに気が付いたのは、高校一年生の時だ。
だんだんと夕暮れに向かっていく世界の切なさを曲で表現したくて、何日も何日も一人で放課後の教室に残っていると、ハジメは一人の同級生に出会ってしまった。
堂々と、力強く、強引で、いつも和の中心に立つも、少しだけ儚くて、整った容姿を持ち、まさに人を惹きつけるために生まれたようなカリスマ的存在である京花だった。
ハジメとは正反対の世界で生きる人間だ、そう印象を抱いたのは、ほんの僅かな時間だった。
初めて京花とちゃんと接するようになったあの日。
ハジメの奏でた音楽を真剣に聞く京花を見て、似た者同士だと思った。
音楽に真剣に通じようとしているからこそ、地味で暗いクラスメイトが作った曲でも気味悪がることなく、一音も逃すことなく聞こうとしている。
ハジメが作り上げた世界に没頭する京花に、申し訳のなさを抱きながらも声を掛けた。そうしなければ、いつまでも現実に戻ってこないことを分かっていたからだ。
そして、聞き終わった後のやり取りで、ハジメの予感は確信に変わった。
京花の口から紡がれたのは、ハジメが胸の奥で秘めていた言葉にならない想いだった。
京花は傍若無人な振る舞いを見せるところもあるが、人の心象風景を正確に読み解き、言葉にすることに長けていた。その才能により、京花は一瞬にして、ハジメの曲に言葉を乗せたのだ。
天才とは、こういう人間のことを言うのだとハジメは思った。同時、京花といれば、ハジメが本当に作りたいと願っている世界を完成させることが出来ると確信した。
京花であれば、ハジメが思い描く理想を遥かに超えた形で、世界を彩ってくれるという確信を持っている。
だから、全てを投げ捨てたくなるような、辛く孤独な創作活動にも耐えることが出来る。
たった今作り上げた世界がどう彩られていくのか、一人ハジメは夢想していると、
「ハジメ!」
ドタバタと階段を駆け降りるような音に続いて防音室の中に響いたのは、ハジメの心を奮わせる声だった。
ハジメは扉の方に目を向けた。
そこにいるのは、息を荒げながらヘッドフォンを手にしている京花だった。
「……京花、ちゃん」
久し振りに他人に対して発した言葉は、当然のように酷くか細く、今にも消えてしまいそうだった。相当弱っているのだと、ハジメは客観的に痛感する。
しかし、弱っている状態だというのに、京花の声には煩わしさを感じない。
「作った! これ聞いて!」
京花は遠慮がなかった。
常人なら足を踏み入れるほどを躊躇するほどの乱雑としたスペースも、臆することなく掻き分けて進んでいく。京花自身の部屋も似たような惨状なのだから、躊躇う理由はどこにもない。
そして、無遠慮にハジメの前に来たと思うと、京花は強引にハジメの耳にヘッドフォンを装着させた。
文字通り命を賭けるようにハジメが作り上げたイントロが、耳から響く。自分の意志で聞くのと、他人から聞かせられるのとでは、少しだけ受ける印象が異なる。
しかし、そんな呆けた感想を抱くのも束の間、すぐに京花の力強い声が、脳を刺激した。
世界に色が灯った瞬間だった。
京花の伝えたい想いが、怒涛のように押し寄せて来る。そして、すなわちそれは、ハジメが胸の奥底に隠していて世に発信したい想いでもあった。
――あぁ。どうしてこの人はいとも簡単に人の想いを汲んでくれるのだろう。
ハジメが京花に音源を送ってから、まだ半日も経過していないはずだ。それにも関わらず、ハジメが作り上げた世界に対して、京花は花を咲かせている。しかも、その色合いに、一切の乱れがない。
どれだけ京花は天才なのだろうと、ハジメは痛感させられる。
気付けば、京花が新しく塗り替えてくれたハジメの五分十六秒の世界は終わりを告げていた。
「……もう一度」
ハジメは求める。京花は無言で頷き、端末を操作する。もう一度、世界が響き出す。
遠くにいたはずなのに、誰よりも近くに寄り添ってくれるような言葉の数々。
優しく、繊細で、包み込まれるような感覚。他の誰にも作れない、ハジメと京花で完成させた世界。
ハジメはずっとこの世界を作り上げたかったのだと理解した。
狂うように没頭し、それでも至高の世界に至るためにもがき続け、周りの人間からも揶揄され続けて来たけれど、その労苦が全て報われたようだ。
こういう瞬間を体験してしまったから、ハジメはもう抜け出すことが出来ない。
――一方。
縋るようにヘッドフォンに耳を当てているハジメを、京花は複雑な心境で見ていた。
ハジメは間違いなく天才作曲家だ。ハジメが奏でる曲は、一音一音完全に計算されていて、繊細な音をしている。世のどこにいても辿り着けない世界を、ハジメはその小さな頭の中にいくつも持っている。
その旋律は、どれほど人の心に寄り添い、救うことが出来るだろう。
京花はハジメの音を邪魔しないように、一語一語大切に言葉を紡いだ。それがどれほど己の心身を削る作業だろうか。
恐らくハジメに出会わなければ、ここまで京花は苦しめられることはなかった。自分を恥じたくなるほど何度も何度もハジメの才能に嫉妬したこともあった。
いつもハジメという理想が、京花に纏わりついていた。理想を超えるために、人として大切であろう様々なものを犠牲にして来た。
だけど、京花はハジメに声を掛けなければよかったと、そう後悔したことは一度もない。
ハジメに出会わなければ生じなかった音楽が、たくさんある。気付けなかった想いが、あまりに多い。
京花は作曲をする際にハジメを理想とするだけでなく、作詞をする時もハジメの次元を想像しながら書き綴っていた。
その結果、誰からも認められるボーカリストになることが出来た。それは誰かの心に届き、誰かの助けになれたということだ。
人に影響を与えられるというのは、並大抵の実力で出来ることではない。ハジメに出会わなければ、京花は自身の才能を宝の持ち腐れとさせていただろう。
そして、もっとも幸いなことが、ハジメが作り上げた世界を誰よりも一番先に触れ、言葉を綴れることだ。
無限に言葉が湧き出て、最高の歌を作れた時のあの瞬間。
世の何も卓越した恍惚さは、味わった者すべてを虜にしてしまう。一度虜にされてしまえば、もう抜け出すことは出来ない。
まるで誰の足跡のない新雪で、自分だけの氷像を作る時の快感に近いだろうか。
もっと、もっと。もっと先に進んで、誰も踏んだことのない境地へ。
更によい音楽を生み出すためならば、狂ったように没頭してみせる。
そうしてこそ、誰も見たことのない世界に至ることが出来るのだ。
「……」
ヘッドフォンを外して顔を上げたハジメと、京花は視線が重なった。
「どう?」
少女のようなキラキラとした笑みを浮かべながら、京花はハジメに問いかける。いくつ年月が経てども、京花もハジメも、初めて出会った時と何一つ変わっていない。
二人で作り上げた世界を聞いて、怒涛のように押し寄せてきた感情を、ハジメはどう言葉にしようか逡巡した。しかし、それも束の間だった。
「最高だよ」
ハジメは京花のように言葉が巧みではない。だから、シンプルな言葉で、真っ直ぐに自分の言葉を伝える。
「頑張って生きて良かった、って思える。心から」
「私もだよ」
ハジメの感想を聞いた京花は、一番最初に浮かんだ言葉を何も飾ることなく簡潔に言った。
<――終わり>
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